査読

昨日、非論理的な査読というようなことを書いた。

少しだけ具体的に書いておこう。

たとえば、13年前のあるいは今回の我々の論文では

「中軸中胚葉は動物極へのさかのぼりをしない」と主張し、

それを示す実験を行なったつもりである。

しかし査読者のコメントには以下の文言がある。

「さかのぼりはある!なのに無いというのはけしからん!!」だ。

我々は「無い!」と考えそれを実証しようと試みている。

だから否定するなら、我々の実証が間違えていることを具体的に示してくれないと、

我々はこのコメントにどう答えたらいいのかわからないのだ。

だって、査読者が前提として「さかのぼりはある」として、

彼(彼女)にとってはそれが絶対真実なのである。

我々はそれが違うと考えて実験をしているのだから

実験の問題点や結果の解釈の問題点を具体的に示してくれない限り、

論理的な議論が進まない。

「実験が不十分」というのであれば、

「どのような実験結果が無くてはならないか」について指摘しなければならない。

それをただ「不十分」というのはただの個人の感想であって論理ではない。

「どのように不十分」なのか「どのような実験(結果)がさらに必要なのか?」

それを示してもらわなければ議論が成立しない。

言い過ぎになるのかもしれないが、

一連の査読者のコメントに見えるのは

私たちの(言う)ことが感情論として「嫌い」ということだけなのだ。

 

ひどいコメントになると「これまでの歴史でエレガントな仕事がたくさんある」

「その仕事を肯定して議論を進めなければならない」となる。

そもそも我々は「これまでの結果の解釈が間違えている」と主張し

それを証明する実験を行なっているつもりだ。

だから、その我々の議論の間違いを否定すれば良い。

ただそれだけのことだろうと思う。

感情的に「気に入らない」という態度は、

こと査読という行為には最も相応しくないと感じるのである。

 

我々は、査読者の具体的な指摘を知ることで、

査読者が誤解している可能性を知ることができるし、

査読者がどう考えているのかを知る材料になるからである。

それがまともに理に適っていれば、あるいは我々の不備を指摘しているなら、

よろこんで論文を撤回するしいくらでも書き直す。

要するに論理的な「議論」ができるようになる。

おそらくこれが科学の正しい方法論だろうと思うのだ。