偶然
科学者としてもはやこれを言ったら不適切かもしれないが、
進化なんて論理的な説明がつかなくてもいいと思うことがある。
これは、非論理が許されるというのではない。
ただ、たとえば数億年に一度しか起こっていない現象について考えると、
それが合理的に説明されるとしたらもっと頻繁に起こってもいいんじゃないかと思うのだ。
普通科学の世界は最も考えやすい、
あるいは最も合理的な仮説を強く支持する傾向にあると思うのだが、
こと進化に関したら、論理が通ってさえいれば
起こりやすさとか合理性はある程度無視してよいのではないか、
そんな風に感じてしまう時があるのだ。
だって、その変化は数万年(数百万年、数千万年)に一度しか起こっていないんでしょ?
だったらとりあえず何でもありって感じが強いんじゃないの?
ってことである。
さて、この欄の読者の皆様にはしつこいと思われるくらいに発生拘束の話をしている。
それは私の興味がかたちの変化であるからで、
しかも種分化というよりはもっと根本に近いかたちの変化に興味があるからである。
だから、例えば代謝経路や匂い/味覚などの変異に関しては
発生拘束を十分に満足させる変だろうと思う。
いや、むしろ代謝経路の変化によりあるものが食べられるようになった、
あるいは食べられなくなったみたいなところで生殖の隔離が起こり、
その結果として形態の変化が独立して起こり始めることは普通にあり得るだろう。
また、フィンチのくちばしなども同じであり、
くちばしのかたちの変異は発生拘束に抗うことはおそらくあり得ないから、
くちばしの変異から食べ物が変わり、それが物理的・生殖的な隔離につながった結果として、
その他の形態の変化につながる可能性はあり得る。