かたちの進化
進化の原動力はゲノムに生じる変異であるのは間違いない。
ゲノムの変異というものを進化の文脈で具体的に考える場合に、
どうしても世代間の変化とか環境との適応とかに話が及ぶ。
しかし、発生を見ている目からは、
それ以前に発生を全うできるかどうかが気になる。
発生現象を全うできなければ成体になれず、
したがって子孫を残し得ないのだから進化もへったくれもない。
進化というかたちで何らかの変異が具現化するとすれば、
それは多くの場合に発生現象に直接的な影響を及ぼすだろう。
もちろんこれはかたちの変化に関わる場合に限られるかもしれないのだが、
かたちが変化しなければ見かけ上進化として捉えられないのだから、
変異が入る前とあとで、ゲノムは異なっても発生は原則を守らなくてはならない。
これが私の言うところの発生拘束(https://hashimochi.com/archives/6852)である。
動物門の関係性に関してはちょっと異なる考え方をもっているのだが、
門の中の進化に関しては原則的に段階を踏んでいると感じられる。
段階を踏んでいるとは言っても連続的では独立した分類群にはなり得ないから、
淘汰圧による絶滅とは別に、ゲノムとして成立しうる変異には不連続な何かがあると思っている。
極論すれば、現存する分類群の間の「空白地帯」には、
過去に生物がいたのが消えたのではなく(もちろんその可能性はあるのだが)
そもそもその場所を占めることのできるゲノムは成立し得ないのではないかということである。
それは連続的な変異が収斂したのかもしれないし、
そもそもその「空白地帯」の変異は
内部淘汰(https://hashimochi.com/archives/6858)によって
ゲノム(生物)として現れることができなかったのかもしれない。
ちょっと話がずれた。
実際に現存するゲノムに変異が入ったとする。
その変異は絶対的にその生きもののその時点での発生過程を満足させるものでなければならない。
この段階でひとつの淘汰圧が確実に存在する。
いきなり新しいかたちができたりしないということである。
我々は現存する生きものしか目にできない。
だから、その違いを知り、その違いから進化を探ろうとする。
それは方法論として仕方ない。
しかし、現存する生きものはあくまでも結果であり、
現存するゲノムに起こっている数々の変異は結果論を見ていることと考えられるだろう。
そして、ひとつひとつの進化の過程を微分的に考えると、
やはり一番大きいのは発生拘束による淘汰圧をくぐり抜ける段階ではないのかと思う。
発生拘束をくぐり抜ける過程で物理的・生殖的な隔離が起これば、
その後は「個体群」として独立的に進化しうるわけで、
こうなれば周囲との交雑はなくなり、独自の変異を集積しうる。
現存するゲノムに導入された変異のほとんどは
隔離後の独立した変異によるものであって、
隔離のきっかけ自体を考える時の「変異」は、
ゲノム配列を見ても実はほとんど分からない程度のものであった可能性も大きいと感じる。
ゲノム自体に生じる顕著な変異ではなく
ゲノムから遺伝子が発現する際の(エピジェネティックな)変異によって
発生過程は変わりうることは知られている。
これが進化(変化)のきっかけだったとして、
それが現存するゲノム上に残っている数多くの変異のひとつにとして見いだせるかと言えば、
あまりに地味すぎてかなり疑わしいと感じる。
ダーウィンの言う「自然淘汰」を受けるには
生物として完成されなければならないし、
子孫を残し得なければならない。
そのために立ちはだかる発生拘束の壁は決して小さいとは思えないのである。