無の存在、その後

おそらく我々人間が持っている規則性の概念が通じない何かが自然界にはあるだろう。

その壁を乗り越えない限り高次の規則は見いだせないとするのがいまの方法論だと思う。

しかし、この考え方は結局何も見いだせないと言っているに等しい。

今のところ、我々の意識でその規則性が見いだせないときに、

そこに存在する要素同士を構造としては扱えない。

当たり前のことだが、不連続な要素同士の関係性など分からないわけで、

だから、それらが織りなす構造に、そこに存在する要素を過不足無く入れるなんて離れ業は、

論理的に考えてもまったく無理な話であろうことは普通に分かる。

しかし、自然界にもしこのような「不全族の連続」があるとするなら、

自然界には、「自然に」高次元では連続性を持つ形で要素が勝手に集合しているはずである。

だから、最下位の要素に意味を与えるとこの連続性は見えてこない。

だからたとえば数学が規則性だけを取り上げて議論することになる。

いまの私たちに必要なことは何かと言えば、

最下位の不連続性に意味を与えることをやめ、

上位の連続性を見いだすことへの方法論ではないかと私は思うのである。

これを論理的にできるのか?については現時点では「無理だ」としか答えられない。

それは、不連続性に意味付けしてまとめあげられないという「論理」からの思考である。

よほど目に見える形をとっていない限り、その要素がどの次元の要素であり、

他のどのような関わりを持ってどのような構造をつくるのかはわからない。

一見するとそこには要素の無意味にも見える集まりが存在するだけなのだから。

そこから我々の論理性を持って要素の仕分けに入り、

論理的に要素をカテゴリー化する作業が必然的に入る。

この行程が、要素の不連続性によって無意味と化すのだから、

もはや現行の論理の方法論では太刀打ちできない、とわたし程度の人間には思える。

 

団まりなを持ち出す訳でもないが、ここで必要なことは階層性の概念だろう。

というのは、実は我々が最下層の要素だと思っているものですら、

たとえば物質的にはその下の層がある。

分子だって、中性子やクオークやというものから成り立っているそうだが、

それらが分子の成り立ちに意味を持つのかと言えばそうではないように思う。

別に物質世界の話ではなくても、

論理の要素にしても、単語は音から成り立っているのだが、

そのひとつひとつの音と単語には関係性は無い。

この感覚を、もうひとつ高次の次元に持ち込むことが必要なのだろうと想像はする。

ただ、ここで思考停止してしまうのは、

もはや、この次元で要素の存在自体がきわめて曖昧になってくるからである。

要素の「大きさ」とそれが属する構造の次元にはおそらくほとんど意味がない。

だから、どれをどの構造の要素としてどれだけ集めるのかというレベルでもはや我々の手に負えない。

 

たぶん、自然科学者はこれに対する解法を自然から受け取ってきた。

なんか分からないがそこに規則性が見いだせるという現象に対して、

現象を説明できる要素を、それこそ上位から規定し想定することで解決してきた。

この思考には、最下位の要素から始める必要性はまったくない。

いまの生物学を考えると、分子生物学のパワフルすぎる技術力によって、

現象からの説明が大いにかけてきていると思う。

まあ、では懐古主義が良いのかと言えばそうともおもえない。

それは、生物学の現象は法則性を求めてきたとはとてもいえないからである。

おそらく、法則性は目に見えないことが多いのだろう。

だから、近藤滋の「縞模様」のように法則性を当てはめられて思考が追いつく。

だから、現象から入るというのは一部の幸運な天才を除けばむずかしいと感じる。

 

さて、ではどうしたらよいのだろうか???