無の存在、おわり
無の存在と題しておきながら、一切この言葉に触れずにきた。
まあ、特に何かを思ってこの言葉を書いたのではないのだが、
ちょっとだけ、触れておいても良いかもしれない。
ことば遊びの発端は「不連続の連続」だった。
この語義矛盾する言葉からケメルマンのように何らかの論理を引き出して、
そこからなにか遊べないかという気持ちだった。
遊びはまったく成功しなかった。
この意味でケメルマンとの力の差は歴然としている。
「無の存在」も同じような語義矛盾を抱える言葉としても遊ぶことはできると思った。
単純に考えて、「無」は「非存在」だろうし、「存在」は「有」だろう。
だから「非存在」が「存在」しているということはどういうことなのだろう?という遊びである。
存在という言葉の意味を考えると、
それだけで長編の文章が書け、しかも決して完結しないだろう。
ただ、非存在を真空のように何も無い空間だと想定し、
その逆を存在だと想定すると意味を見誤ると感じる。
存在とは、意味を持って「そこにある」ことだろう。
だから、非存在は、たとえそこにあったとしても意味を持たない状態なのだとする。
意味とはア・プリオリには成立するものではない。
意味は、その関係性において、ひいては関係性が構築する構造においてのみ成立する。
だから、要素の意味は、それが織りなす構造に一義的に依存し、
その構造が閉じた形となったときに、高次の構造の要素となりうるのだが、
その場合には、その構造の成り立ちには一切関連しないと考える。
閉じてしまえば意味を持たないただの要素であると考える。
まあ、この辺りはもう少し丁寧な議論が必要だと思うのだが、
同じような文章はこの欄でたくさん書いてきたので探していただきたい。
さて、不連続を閉じた形にするということを想像すると、
もうまったく分からなくなる。
連続性があり、規則性があり、周囲と意味を持って関連付けられているからこそ、
閉じた形として認識できるのだが、
周囲の要素との間に関連が無くなれば、その要素の存在が危うくなる。
要素の存在(意義)とは、周囲との相対的な関連性によってのみしか担保されない、
私はそう考えてしまう。
このような感覚から「不連続の連続」から「無の存在」を瞬時に思い浮かべたのだ。
そして、連続するという意味を不連続に与えるような高次の規則性を見るのは、
能動的思考というよりは、受動的思考が必要なのだろうと感じるのである。
無いものは見えない、これは当たり前のことだろう。
しかし、ある瞬間に突然意味を持つ、すなわち無から有が瞬間的に現れるとしたら、
意味を与える論理を考えるのではなく、
意味はア・プリオリに現れたとして次をひとまず考えるという方法しか
現時点ではないのではないかと思うのである。
もちろん、この理屈はこれまでの「かたち論」に完全に矛盾することは分かっている。
意味はア・プリオリには存在しないと言い続けているからだ。
だが、今の話は特に矛盾するとは考えていない。
というのは、意味を与えうるものは互いの関係性のみであり、
意味はすべて相対的にしか規定されないということだから、
連続性という関連を創出できる要素の出現も、
連続性という高次の関係性においてのみ規定されるとなるからである。
ここで、新たな問題になってしまったことは、
かたち論的には要素となって働く構造も、
下位の要素の関係性によって成立するものであると考えていることが、
この下位の要素同士には不連続性しか無く、
したがって関係性という意味付けがなされないにもかかわらず、
それが閉じた要素となってしまうからである。
もちろん同様の現象は普通に存在する。
クリスタリンがクリスタリンたる所以はレンズを作るということにおいてのみ依存し、
クリスタリンの存在においてクリスタリンは規定されえないということにまったく等しいのだ。
これは、しかし、クリスタリンを構造として考えた場合にただのアミノ酸の並びに過ぎず、
そのアミノ酸自体には何も意味はなく、
だからある環境下では代謝酵素として働きうることなのだ。
だから、アミノ酸の並びは不連続であるのであり、
それ自体に何も意味を有さないのである。
その(特定の)アミノ酸の並びに意味を与えるのは他の要素との関係性のみであり、
その関係性が意味を持つのは、おそらく淘汰圧に対して残りうるという場合のみであろう。
これがかたち論の根本思想であり、この本質からは何も逸脱していない。
にもかかわらずなぜここまでごちゃごちゃと書いているのかなのだが、
結局、まったくの無意味、すなわち非存在、からいきなり意味が成立する過程は、
生命や物質の誕生の時点にさかのぼる程度であり、
それだけ原始的で根源的なときだからこそ、無から有が生じたのだと、
何となく漠然と考えていたのだから、
「不連続の連続」ということば遊びで垣間見えてきた「意味の突然の出現」に
獏と考えていたことの考え直しが現実問題として浮かび上がってきたことへの戸惑いなのだろう。
ただまあ、普通に考えればこの論理は当たり前の理屈であり、
我々が解かなければならないところというのは、
無から有の出現、あるいは不連続から連続の出現、
無意味に意味が与えられる状況についてなのだろうと思う。
ここだけは論理的に解けるものではなさそうに思うから、
我々が大きな壁にぶつかっているのだろう。
逆に言えば、この「非論理」が解ければ、
一見して「非論理」に見えるところに新たな「論理」が与えられたときに、
残る論理的説明はきわめて簡単に進むだろう。
現在は、壁を放置したままでも解けそうな極めて論理性の高い事象に人々がたかっている、
そう思えてならないのである。