生きものの論理 その3

さらに蛇足。

 

いまの翻訳ソフトはなかなか素晴らしいと思うのだが、

その理由は、結局は翻訳の基本原理を考えるのをやめて、

とにかく網羅的にすべての言葉を取り込んだということだ。

これはすなわち、人間が言語を習得する行程にきわめて近いと感じる。

まあ、ここで言語の習得のときの脳へのその本質の取り込みができず、

とにかく存在する言葉の組み合わせを取り込み

そこから対応する言語を検索するということであり、

まあ、ここがチョムスキー流にいう人間と機械の違いに至るのかもしれない。

 

だから、言語の本質を見つけようとすることには遠く及ばないが、

文法を交換する公式の探索すらもあきらめた結果になったのだろうか。

 

さて、ここでゲノムに思考を戻す。

ゲノムをとにかく情報として比較することで

ゲノムに書かれている文法を見つけ出そうとしている現状が、

はたして効果的なのかということになる。

これはゲノムの本質を探るという議論ではなく、

あくまでもゲノムの規則性を見いだすというレベルの問題であるのだが、

それすらも怪しいように感じる。

先のブログにも書いたことだが、

ゲノムの配列情報を網羅的に手に入れられる時代はきている。

しかし、これが電子顕微鏡の開発と質的にどれほど異なるのか分からないのだ。

ただ情報が多くなっただけ、

情報が多いと、これまで見えなかったものが見えてくるのは確かだろう。

しかし、それはあくまでもきわめて表面的な事象に過ぎないのではないか?

実際に生命現象の記載から分子生物学に変換したときに

生物学はすごく進歩したように思った。

しかし、実際にはたしかに細かくはなったのだが、

質的にどれだけ新しいことが見えたのかと言えば、

大して変わらないように思えてならない。

というか、最初にあった現象の記載からレベルが進んでいないように感じる。

まあ、ゲノムの数理的解析にしても同じ道を歩まないか?これが疑問である。

 

ただし、この点も実はどうでもいいと思っている。

新たな知見の集積が爆発的に進んだとしても

それはあくまでもある切り口でのゲノムの表面的意味にしか過ぎないと私は思ってしまうのだ。