オートプシーイメージング

これもこの数日の続きなのだが、何となくタイトルを変えてみた。

オートプシーイメージングの話を思い出した。

AIとも略され死亡時画像診断とも呼ばれる。

ある種の病理解剖や検死に近いものだ。

 

AIは、ご遺体をたとえばCTなどの画像として記録し、

そこから死因などを解析することがその目的らしい。

まあ病理解剖の意味合いが多分にあるのだろう。

さらには、ご遺体を焼いてしまわないうちに、

とれる情報をとっておこうという考えも大いにあるそうだ。

たとえば、何年も経ってから新たな知見が増えたときに、

ご遺体が骨になっていればその検証はできないのだが、

画像だけでも存在すれば後々の検証に耐えられる。

新たな知識が増えたとき、

たとえば最近のDNA鑑定のように、

以前にはあり得なかった精度で様々な解析がなされる時代になったときに、

DNAのサンプルが残っていなければ何もできないから、

とにかく将来の技術革新のためにもサンプルを確保する、

まあそのような感覚もあるのだと聞くし、海堂尊もそのような意見を述べている。

 

もうひとつの利点は、とにかく解剖には経験値が大きいらしい。

だから検死がなかなか進まない。

しかし、画像データとして残っていれば、全国、いや全世界の医師がそれを確認できるし、

そこから新米医師が独学で経験を積める。

何も目の前に様々な症例の死体がなくても構わないわけだ。

これはなんとも画期的な気がしてならない。

 

話がそれた。

なぜこの話を思い出したのかということだが、

結局、画像データを情報としてあらゆる人がアクセスできるようにすることで、

ひとりの知識にとらわれることなく、

まったく異なる分野の人間の視点からの解析も可能となり、

たとえば専門家が見落としがちな新しい知識が見いだせる可能性があるということだ。

いわゆる「集合知」の概念である。

 

AIの場合にはその目的がきわめて明快になっているのだが、

これがゲノムとなった途端に、なんか訳の分からない期待が出てくるように感じるのだ。

なんか分からないけど「新しい何かが分かる」って感じだろうか。

もちろんその通りのことが起こるかもしれないのだが、

目的、あるいはゴールが決まっている話ではなく、

ただ、情報だけを公開して「誰か何かしてほしい」ってことに過ぎない。

もちろん、1人で考えるよりも大勢で考えた方が多くの意見が集められるし、

母数が大きくなれば確率的に優れた意見が表れる可能性は高まる。

しかし、それでもただそこに並べているだけでは問題解決には至らないのではなかろうか?

賢い問題提起がなされない限り情報の共有によって新しいものが見えると思えないのだ。

 

いや、もしかしたら新しくて賢い問題提起も、

情報を共有する多くの人からなされる可能性もあるとしているのだろう。

ただ、やはり、この手の議論にはゴールを決めておく必要があるように思えてならない。

 

AIで不特定多数の人が情報にアクセスできるようになるとはその技術の性格上もあり得ないとは思う。

だから、ゲノムとは正確におなじ議論ができないかもしれない。

でも、AIは、その目的がはっきりしている。

それに対してゲノムはただ闇雲に塩基配列のデータがひしめき合っているだけの印象を拭えない。

いかに数学を駆使しようとも、そこにある未知のものに切り込めるとは思えないのだ。

未知に切り込む手段がない。

新しい概念の創出こそが唯一の手段であり、

逆にいえば概念の創出さえできれば、

あとは知を集合することで目覚ましく進むことはできるだろう。

そして、これまでの歴史からも分かるのだが、

新しい概念の創出には天才の出現を待たなくてはならない。

ここの段階に新たな技術はまったく貢献しないと思う。

技術は、何かを推し進めるときには爆発的な力を発揮するが、

何をして良いか分からない段階では技術は無力だろう。

集合知の考えは議論にはむいていると感じる。

しかし、概念の創出を、分母を広げることで前向きに進めるのか?かなり疑問に思っている。

だから、やはりゲノムに関しても上手な水先案内人が議論の流れをコーディネートしていかないと

どうしてもぐちゃぐちゃになるように思えてならないのは悲観的すぎるのか?

 

もうひとつ、これは言い過ぎを承知でいうのだが、

新しい概念の創出こそ生命誌の役割であり存在意義なのではないか?

むしろ、概念の創出以降は、知の集合や新たな技術の進歩に任せたら良いと思う。

そこまでする必要もないし、そこまでできるとも思えない。

だから、とにかく深い哲学的思考の徹底を、いまの世だからこそするべきではないか?

そして、そのきっかけを生命誌が与えられるのではないか、

そう真面目に思っている。

その意味で、生命誌が技術を追ってはならないとも感じる。

こういうと「橋本君、それは古い考えやで」と言われそうな気はするが。

 

ただ、可能性として、限られた人間の思考よりは、数多くの人間の思考がおり混ざるときの方が、

しかも、そこに明らかな専門外の人間、

すなわち、本来ならそのデータに触れることなど絶対になかったような人たちの関わりが

新たな地平を開く可能性はいまよりは格段に広がっているのは間違いないだろう。

でもね、そこで思考停止したらダメだと思う。

 

たとえば数理生物学は、たとえば近藤滋や三浦岳のような流れを生んだ。

しかし、私の思うその他大勢の数理生物学者は、

数学ができるという理由で生物界に入ってきたと感じる。

だから、素人でも「数学で解けそうだな」と感じる問題を数学で解く。

だからそこに驚きはない。

ここでも、生物学的にどれだけの問題意識を持っているのかが鍵だろう。

単に周期性のある現象を数式で表されても数式の詳細は分からないのだが

「でも、そういうことはあるだろうな」と感じてしまう。

 

では、数式から関わる分子の想像に至るのか?

だが、これも30年前に期待した効果はまったく現れていない。

というか、その現象を表せる数式はひとつではないから、

いくつもの可能性の中のどれかには当てはまるとしか答えようがないらしい。

近藤滋や三浦岳がなぜ面白いのかという答えは彼らが数学に長けているからではなく、

生きものに心から興味をもっているからだと思う。

その方向性が定まってからこそ集合知が生きるのだろうと素人考えなのだが真面目に思う。

だって、AIも、その目的がしっかり定まっているからそれを多くの人の知を集めて解こうとなる。

同様に、水先案内人を作る(見つける)階層での集合知の利用の仕方を考えるのが先決かもしれない。