生きものの論理 その2

蛇足のような続きである。

 

私が思う「言語における文法」は、

たとえば日本語における動詞の五段活用みたいなものを想像していただけると分かりやすい。

日本語という体系を調べていくと「五段活用」という規則が見いだせる。

しかし、それは規則が先にあって五段活用が存在したのではなく、

五段活用という規則がたまたま日本語に採用されているに過ぎないということ。

日本語が先に存在するから五段活用が見いだせたのであって、

五段活用を知っていても日本語が分かることにはならないということである。

 

日本語が存在するということはそこに文法が成立している。

だから日本語を調べたら文法の規則は見えてくる。

しかし、それが見えたからと言って日本語が理解できたのかと言えば

それが表面的な理解に過ぎないことに気付く。

日本語と言うものの本質、言語と言うものの意味の理解には、

文法の研究はまったくの無力だろうと思う。

 

ゲノムを情報としてとらえると、

ゲノムの本質を見誤ると感じるのはこの辺りにあるのだろう。

それは、言語もまた情報であるからである。

言語は複製される。

親から子へと受け継がれる。

受け継がれるときに変化もするし時間をおって別の言語にもなりうる。

では言語は情報か?といえば、

伝達され複製されるものとして切り出されたときのひとつの側面に過ぎない。

それは逆説的に考えると分かる。

体系が複製され伝達されるとすれば、

その瞬間は「情報」としてしかとらえられないだけの話である。

それは人間の脳の認識の問題であり、

だから言語は情報だというのはちょっと言い過ぎのように思う。

同様に、ゲノムもまた情報と言う一側面を持つ体系として理解されるべきものなのだろう。

 

ゲノムを情報としてとらえることは、

生物が持つ規則性を生理学や形態学、あるいは遺伝学という切り口でみることと

その本質において等しいと言える。

情報という切り口から見ればゲノムの中の情報の側面が浮かび上がる。

かたちから見たらはたらきが消え、はたらきから見たらかたちが消えることと同じだ。

だから、「生物学」としての解析手段としては問題ない。

しかし、生きものの論理としてのゲノムを知ることには近づかない。

少なくとも私にはそう思えてならない。