生きものの論理 その1

私は生命の論理はゲノムであると考えているのだが、

こう考えると一般的なゲノムの意味合いと異なるかもしれないので、

あえてこのことを主張するつもりはない。

 

さて、生きものの論理を考えることと生物を研究することとの違いはなんだろう。

あるいは両者は違わないのだろうか??

私は、「言語を知ること」と「言語学」の間の違いに等しいのではないかと考える。

まあ、この表現自体が分かりにくいと思う。

まず、大前提として言語は論理体系であるということがある。

だから、言語を知ることは言語の体系を本質的に知ることに他ならないと思っている。

では、言語学とは何かというと、

言語に潜む法則性、すなわち文法を考える学問だという気がする。

論理体系である以上はそこに論理は存在する。

しかし、その「論理」は本質ではないというのが私の思うところである。

だから、現実に異なる言語には異なる文法が成立しうる。

しかし、その本質において言語体系は共通ではないか、

その共通性がどこにあるのかというのが言語を知ることなのだろうと思う。

 

生きものの所作ももちろん論理的であろう。

形づくりにも法則性があるし、

進化にも生命現象そのものにも規則性があるはずだ。

そしてその規則を見いだす学問が生物学だと思っている。

しかし、その規則は、あくまでも後付けの規則であろう。

たとえば進化を考えた場合に、

何らかの変異が残るということは、

内部淘汰からも外部淘汰からも残ってこなければならない。

その「残る」という事実を成立させるためにその場での論理が生じるのだが、

その論理そのものは、その場を満足させられる限りにおいて、

別になんだって構わない。

そこに必然性は必要ない。

これが生きものの規則性であろうし生物学の研究対象であろうと思う。

しかし、生命の論理というものは、

表面的に類似性や規則性に依存するものではないというのが私の立場である。

まあ、これが言語学に対するソシュールの立場なのだろうとも思うのだが、

結局はゲノムに潜在する「かたち」を見いだすことと、

そのかたちの上で表面的に存在する規則性を調べることとの解離に

しばしば生物学者としての絶望感をも覚えるのだ。

 

生きものの形づくりをずっと見ている。

そこに共通性が見いだされ、進化の道筋に想いをはせる。

しかし、それが生物の論理かと言えば違うと思う。

生きものの本質的な論理に則った上での規則性があるだけであり、

逆の見方をすれば、「論理」に則っていない規則は規則ではあり得ず、

したがって、規則とは言語学における文法に等しい程度のものである。

だから、生命現象の規則性や法則性が生きものの論理を具現化したものかと言えば、

それは質的に全く違うと思わざるを得ない。

 

だから、生命という根源的な何かを知ることと生物の研究とは

「似て非なるもの」としか思えないのだ。

中村桂子は「生命誌」という考え方を提唱しているが、

これが「進化・発生・生態」の融合で終わっては生物学の亜流にしかならない。

生命と生物との質的な解離に目を向けたときに

生命誌がなすべき何かが見えてくるのかもしれない。

 

なんにしても、現在のゲノム研究で生命が分かるとは思えない。

膨大な情報から数学的に新しいものは取り出せるのだろうが、

それも、電子顕微鏡やDNA配列決定技術などが開発されたときの

それまで見られなかったものが見れた瞬間と質的には何も変わらないだろう。

これが、「生命の論理がゲノムにありゲノム研究は数学では解けるはずがない」

「ゲノムこそは哲学的に取り扱われなければならない」という私の根本思想に繋がる。

 

実は先日、西垣通先生との会話の中で、

西垣先生はまさにこのようなことを言われていた。

生物の論理の先を考えるのが必要だという話であった。

生物学の研究者には途方もないくらいに難解な挑戦だろう。

いくら挑戦しても答えは永遠に見いだせないかもしれない。

でも、十分に意味のある挑戦ではないのか、

私にはそう思える。