卵黄と脊椎動物

卵黄が多くなることにより、

エサを食べなくてもある程度発生を進めることができる。

だから、脊椎動物のように複雑な構造をつくるには

一定量の卵黄の存在は必要なのかもしれない。

ただし、脊椎動物のような複雑な発生過程を経ることと

卵黄量を増やしたことの間の因果関係を考えるのは

おそらく間違えているように感じる。

結果として卵黄が増えたおかげで複雑な発生が可能になっただけのことだろう。

 

先のブログでも論じたことだが、

卵黄量が増えること、すなわち卵の体積が増えることが先にあったのではないだろうか?

ナメクジウオの胚にも予定内胚葉細胞に少量ながら卵黄顆粒は存在するらしい。

この卵黄が徐々に(突然に、でもまったく構わないが)量を増やし、

結果として卵の体積が増えたとしよう。

もちろんこの際にはまだ脊椎動物にはなっていない。

すると、今までと同じ回数の分裂で形態形成運動をする事になれば、

細胞の大きさは卵黄の量に比例して大きくなるだろう。

概念(感覚)的な話になるのだが、

卵黄が多く大きな細胞が、シートを作ったり折れ曲がったり、

あるいは遊走したりといった形態形成運動に参加するのは物理的に難しいと感じる。

この「感覚」に従えば、

ある程度,細胞が小さくなるまで分裂しないと形態形成運動は起こりえないこととなる。

そうすれば細胞数は自ずから多くなることは必然であろう。

 

脊椎動物の出現時の卵(卵黄)の存在様式は、

おそらく両生類的(真骨魚を除く多くの魚類的)な感じだろうと思う。

いや、この表現はおかしいな、

魚類と両生類の原腸形成は「両生類的」であり、

たとえばゼブラフィッシュとかアオガエルなどの

卵黄を腹に抱えて発生する様式はかなり特殊なんではなかろうかと思うのだ。

その理由は、たとえば盤割様式をとるのであれば、

胚体になる部分と卵黄の部分を分けることが可能となり、

胚体になる領域が小さければ細胞数(分裂回数)を増やさなくても

細胞を十分小さくすることは可能だからである。

だから、細胞数が爆発的に大きくなっていることが発生拘束として定着して、

その後に盤割様式を採用したと私は考える。

 

ちなみに、以前も本欄で論じたことだが、

細胞数が少なく、細胞の運命が決まっているような発生過程では、

神経堤細胞は生じ得ないと私は考えている。

実際に神経堤が生じる場所は神経と表皮の中間であり、

厳密な領域制御を受けているというよりは相対的な位置情報からなっていると考えられる。

だから、もし神経堤細胞を、たとえばホヤで生じさせるとすれば、

神経堤細胞を「積極的」に作るという機構が必要となる。

まあ、多くの発生学者はそのような機構を信じて研究を進めているようだが、

私は、あくまでも分化制御・領域制御のいい加減さが神経堤を生んだと思っているので、

少数の細胞から成る胚発生過程で神経堤細胞を厳密に制御して作り出すことは

「ありえない」と考えているわけだ。

 

だから、脊椎動物として頭部を、あるいは神経堤を獲得するためには

神経と表皮の運命が決まる時に細胞数が一定以上大きくなければならないと思っている

(まあ、この前提が崩れればすべてが崩れるのでいい加減な話には違いない)。

という理由から、まず盤割様式をとる脊椎動物が存在したとは考えられないのである。

まあ実際に系統関係を見ても盤割をする魚類はかなり独自の方向へと進化が進んでいるように見えるし、

魚類の、両生類へと続く系統の流れはおそらく全割様式をとっていると考えて間違いないだろう。

しつこいようだが、だからゼブラフィッシュのような盤割をする魚が出現するときには、

「莫大な数の細胞が必須」のような発生拘束がかかっていたのではないだろうかと思うのだ。

同じ議論として、羊膜類の出現は両生類的な発生を経なくては起こりえなかったとも感じている。

 

余談だが、以前から何度か論じた「モデル生物」の弊害はここにもある。

たとえば、ゼブラフィッシュを魚の「モデル」だと考え、

ツメガエルを両生類の「モデル」だと考えて両者を比較し進化を考えると、

おそらくとんでもない間違えをおかすだろうことは想像に難くない。

ゼブラフィッシュは魚類でも異端だろうとされているし、

ツメガエルは両生類の仲では間違いなく異端である。

その両者をそれぞれ魚類と両生類の代表と考えることの愚かさは容易に分かる。

モデルとは人間の勝手な理由(使いやすさとか有用性とか)で選ばれたに過ぎず、

この理由を考えれば、ものすごく大きな偏向がかかっているのは明らかである。

違う言い方をすれば、その分類群のその他大勢の生物種は、

人間(研究者)にとって使いにくいわけで、

だからこそその生物種が「モデル」として選択されたということであるから、

普通に考えれば「その他大勢」の方がよりその分類群の平均であろう。

 

以上の理由から、ある種の発生様式が系統的に離れた別の種と似ているとしても、

それはあくまでも「たまたま」であって、

そこに必然的な意味は決して存在し得ないのである。

棘皮動物は棘皮動物として同じカテゴリーに入った仲間と原則的には同じ発生様式をとるはずである。

しかし、原則さえ外さなければ異なる種は異なる発生様式を獲得したって構わない。

それがたまたま魚の特定の種や両生類の特定の種の発生に似ていることだってあるだろう。

すべての種は特殊であり、それらの比較から共通性を論じることが原則だろう。

モデル生物を用いる学問の危うさはこの辺りに潜んでいると感じてならない。