トリックとロジックとプロット

本格謎解き小説を語る時に頻出する言葉である。

 

私が推理小説を読み始めたのは小学校の高学年くらいだった。

ノベルズ版の笹沢左保なんか好きだった。

そのころの興味というのはやはりトリックだったように思う。

四の五の言わず、新しい大胆なトリックを見せてくれ!という感じだった。

それはおそらく、数少ない読書経験の中で感動したものが

たとえば密室トリックなどがあったからだろう。

 

トリックには大別して作者が作るもの犯人が作るものがあると感じる。

もちろん両者ともに作者の作となるのは当然なのだが、

でも、犯人は策を弄することなく、しかし見ている人にとって不可能に映るものは

作者が作ったトリックと言って構わないだろう。

 

どちらが好きかと言われても答えられない。

内容によるからだ。

ただ、多くの場合、犯人が弄するトリックというのはつまらない。

「トリックを使うための犯罪」感がするからなのだろう。

もちろんこれは、推理小説にリアリティを求めているという意味ではない。

逆に言えば、たとえ実現可能であっても

糸と針を器用にめぐらせて鍵を外から閉められたって、

それで驚くことなど絶対にないのだ。

そういうのを思いついたら小説ではなく現実に用いる日のためにとっておくことをお薦めしたい。

要するに、そのトリックを思いついたから発表したいという作者の願望だけのものであり、

読後の感想が「で?」だけで終わるのである。

 

でもたとえば、笹沢左保の「求婚の密室」で用いられた密室トリックは

犯人が弄したものであるのだが、ものすごく面白かった。

これは、実際に思いつかなければならなかったし、

読みながら頭がフル回転してその周囲をぐるぐる回っていたのにたどり着けなかった

ものすごく単純明快な方法が、どんでん返しにも似た快感を覚えさせたのだろう。

 

ちょっと、トリックについて長くなってしまったのだが、

トリックについて語れば、もちろんこんな程度で済むはずもない。

だが、論点はそこではないのでこの辺りでお許し願うとして、

「針と糸」のようなトリックはもうどうでもいいのだが、

その他にも玉石混淆、トリックはいろいろとある。

しかし、それを結ぶ論理がしっかりしていないと何を書いてもまったく無駄であろう。

だから、トリックはなくても一切構わないがロジックは絶対的に必要なものだ。

非論理の推理小説なんて語義矛盾もいいところである。

だから、トリックかロジックかなどという設問は一切の意味をなさない。

もっと言えば、トリックだけでいいなら小説などにせず、

クイズやなぞなぞにすればことは足りる。

 

さて、そこで問題なのは論理があれば良いのか?ということなのである。

私の答えは「違う!」である。

論理は必要条件ではあるが十分条件ではない。

推理小説と学問書の違いがここにある。

どちらも論理である。

しかし、学問書には普通驚きがない。

ではその驚きはどこから導かれるのか?

全体の構成からだろう。

すべてを見せながら真相には気付かせない。

間違った並びを見せておいて最後に正しく並び替えられたときの驚きである。

これはもちろん論理的でなければならないのだが、

それよりも、見せる順番、並べる順番が計算されていなければ、

巧みに巧まれていなければ、そこに驚きは発生しないと思う。

 

だから、トリックか?ロジックか?プロットか?という設問は私には意味をなさない。

トリックはあっても良いけど、有り様によっては雑音となるから、ない方が良いときもあるくらい。

ロジックはなければ困るが、それは推理小説である以上は非論理では存在しえないことから

あえてロジックという言葉を挙げて推理小説を語る必要などあり得ないだろう。

だから、プロットが残るわけだ。

要はプロットに謎解きの要素が入っていればそれが推理小説であり、

その筋書きが巧みに巧んでいればいるほど驚きが大きい。

それが傑作推理だろうと個人的には考える。

この意味において、推理小説では決して犯罪が行なわれなくても一向に構わないし、

だから、「星を継ぐもの」のようにSFであっても本格推理の傑作になりうるのだろう。

もう少し言えば、はじめに不思議さがあり、物語の過程でそれが鮮やかに解き明かされる小説は

推理のカテゴリーに属さないものであっても楽しめる。