かたちの変化のかたち
標記のことばは細馬宏通さんから初めて聞いた。
彼のオリジナルかどうかは分からないがよくできた言葉だ。
生物学なんてこの言葉だけですべてを表現してしまいそうな気さえする。
かたちとは、一義的には時間軸を止めた状態での要素同士の関係性だろう。
もちろん関係性を構築するのには(微分的な意味での)時間軸が必要だろうが、
ここで言う「時間軸」とはそれよりは十分に長い時間という感覚だとご理解いただきたい。
要素の関係性という考え方もなかなか通じさせるのは難しい。
私が「かたち」と話して、その本質を理解してくれるのは、
まあよほどその手の議論に慣れた方か、
あるいはこの欄の偏執的読者しかいないだろうと思う。
私は「かたち」を様々な角度から説明し続けている。
もちろん「説明」というのは教えるという上からの感覚ではなく、
「説明」しながら自分自身でも考え続けているのだ。
時に発生学、時に分子生物学、時に言語や社会行動など、
どのような場面でも「かたち」の感覚で切り取ることができると思っている。
こう書くと宗教にも似た感じがするが、
私の中では本当にそうなのだから仕方が無い。
さて、「かたちの変化のかたち」である。
かたちをある瞬間で固定する。
固定してそれを要素と見なす(この表現は厳密には絶対に違うのだが)。
そのかたちと、次の時間のかたちを互いに要素として考え、
時間を跨いだ関係性、すなわち「かたち」を考えるということだ。
前者のかたちを漢字の形にすればまさに発生学を見ていることになろう。
ある瞬間の胚を写真で撮り、次の瞬間の胚の写真と比較することは、
発生学が生じた頃から行なわれてきたことであろう。
問題は、ある瞬間の形を「かたち」として認識できていないことにある。
だから、ある瞬間のかたちを要素の関係性に落とし込めない。
関係性の変化という思考に至らないのだ。
だから、時間軸に沿って直線的な思考となる。
時間軸に垂直にその瞬間のかたちが存在し、
その連続が発生であるのだが、
どうしてもひとつの分子を規定し、その次の作用を直線的に解析する。
おそらくこれでは知見が増えるだけで絶対に本質にはたどり着けないと感じる。
「かたちの変化のかたち」を考える思考回路に転換した瞬間に
新しい地平が広がるように思う。
すでに要素は質量ともに十分に得られているのだから、
その並び方を変えるだけでまったく新しい発生学となるだろう。
おそらく数理生物学はこれを目指したのだと思う。
ただ、何となく外野から見たら、新たな武器であった数学に手足を縛られているような気もする。
それらを統合した新しい体系ができないものだろうか?
こういうことを期待して第一回のかたちまつりを企画したのが7年前だ。
あれから私自身にまったく進歩が見られていない。
なんかもがいてるなあ。