心経
たまに般若心経を読む。
解説本も読んだりする。
解説も、書く人によって内容は異なり、
「この言葉をそう受け止めるのか」と感心したりしている。
さて、昨日も中華を食べながら心経の解説本を読んでいた。
怪しげな宗教の儀式では精神に影響を及ぼす怪しげな薬が使われたりするらしい。
酒を飲みながら思索しているとこの感覚が何となく理解できるように思う。
般若のことなどいろいろと想い描いてみた。
想うたびに違った感覚をもつ。
まだまだ悟っていないのだろうなと感じる。
で、やはり思考は空におよぶ。
目の前に存在するあらゆるものは空であると心経は説く。
このことについていつも想いにふける。
たとえば、これまでの思考でいくと
要素はア・プリオリに存在することを前提としていたように思う。
その上で、要素自体に想いをはせるとそれは霧散するとしていた。
要素は、それ以外の要素との関係性によってのみ意味付けされるからだ。
遺伝子(産物)はそこにある。
しかし、それ自体には意味はなく、
それがおかれている環境によって意味は異なるということだ。
この考え方自体は間違えているとは思わない。
しかし、要素の存在そのものを疑ってかかったことはなかった。
だから、目に見えるすべてのものは空であるという心経の教えを
直接的に真正面から受けて思考していなかったのかもしれない。
たとえば元素がこの世に存在しているとしよう(これ自体が色の存在を前提としているのだが)。
空気のようにあちらこちらに存在する元素が
どのように組み合わさり、どのような分子を作るのかについては、
まず第一に環境が意味付けされて初めて決まると考えたらどうだろう。
ちょっとこの思考は言葉に表しにくい。
要するに、環境の存在なくしては要素は存在し得ないという考え方である。
たとえばある環境に着目したとしよう。
その着目するという行為自体が恣意的に何かを切り出すということだ。
その恣意性によってある環境(現象・関係性・体系・・・)が
森羅万象の中から切り出されてくるということである。
その切り出されたカテゴリーという視点に立って初めて、
その環境や体系の中で意味付けされる要素が存在しうるということだ。
ちょっと間違ったたとえにはなるのだが、
感覚的に近いかな?と思う例を挙げてみよう。
たとえばクエン酸回路。
これは別に回路が存在しているわけではない。
細胞の中(この場合はミトコンドリアの中)に様々な化合物や酵素が存在しているに過ぎない。
もちろん、クエン酸回路を構成しないその他大勢の化合物や酵素も同時に存在する。
そういう意味においては混沌にも見えるだろう。
しかし、数多の代謝経路のひとつとして、
あるいはクエン酸回路として切り出した途端にクエン酸回路が意味付けされ、
クエン酸回路を構成する要素の存在が突如出現することとなる。
クエン酸回路を思考の中に想い浮かべずにいると、
そこにはただの溶液が存在するだけに終わる。
これも、細胞やミトコンドリアを意識しているから溶液という切り出しができるだけで、
細胞を意識することがなければこの概念すら我々の思考の外になる。
思考の外ということはすなわち存在しないものとなるのだ。
すでにわたしの作文能力を越えてしまっているので
わたしの頭にあることがここには到底表現されていないのだが、
もう少し続けさせていただく。
これまでは、要素はすでに存在していて、
それがどのような要素とどのような関係性を作るのかという考え方をしていた。
しかし、要素の存在自体が関係性によって規定されるとするわけである。
クエン酸やクエン酸合成酵素がア・プリオリに存在していて
それらがある特定の関係性の元でクエン酸回路というひとつのかたちを作っているという思考ではなく、
クエン酸回路という切り出しがなされない限りクエン酸もクエン酸合成酵素も存在すらしないと考える。
もちろんクエン酸はクエン酸回路の中でのみ働くわけではないから、
違う代謝経路を想定してもそこにクエン酸の存在は出現しうるだろう。
なんにしても、混沌から秩序を切り出した時に、
かたちが出現するとともに要素も出現するということだ。
色即是空・空即是色を夢想するとき、
唯分子論のど真ん中にいる我々には
この言葉そのままを思考することがなかなかできない。
これまでも、存在はアプリオリであるとした上で
その機能的な意味が関係性に規定されると逃げていた。
「存在」と「意味」を意識的に同一視していたわけである。
この辺りの示唆は、実はブリダンの驢馬あたりにも明らかだったのだが、
その矛盾を見て見ぬフリを無意識のうちにしてきたのかもしれない。
なかなかに面白くもあり難しい。