曼荼羅

寝込んでました。

かなり体力を消耗しました。

完全回復とは申しませんが動けるようにはなりました。

 

さて、このところの「情報」の話ですが、

読みになられてご理解いただける通り、

あっちに行ったりこっちに行ったりしています。

これは自分では仕方ないことだと思っています。

 

感じるのは、この議論をリアルタイムで「カレンダー裏」で行なったら

かけ離れた議論同士がどこかで繋がって「曼荼羅」を描くということです。

何かについて議論を始めますと、

わたしの文才ではひとつのストーリーに沿ってしか書けません。

しかし、あるところで議論は新たな議論を呼びます。

そこから枝分かれさせてしまうと収拾がつかなくなるので、

その点での分岐をさせずに、あるいは議論を経ないで、

ひとつの方向だけに限って話しを進めるということをします。

これをするとその時の話は何となく書けます。

しかし、やはり必要な思考を抜いていますので

その時の結論も特殊な条件付きの結論になってしまうわけです。

 

さて、ある筋書きに沿って進む時に生じる新たな議論による分岐を繰り返すと

何となく枝は無限に別れて無秩序になるように感じますが、

経験上そういうことはあまりなく、

枝分かれした議論は、思いもつかないところで別の議論に繋がっていきます。

要するに放散するのではなく全体として閉じていくように感じるのです。

この「閉じる」というところに何か大きな意味があるように思います。

 

浅学な人間のいう言葉ではないのは重々承知しておりますが、

いくつかの哲学大系を思考していると、

どの体系でも触れられずにいるところがあるように思います。

言葉やアプローチの仕方は異なるものの

基本的には同じことを思考していくように思えます。

そして、その見せ方から新しい体系が生じているのは事実なのでしょうが、

でも、どれを読んでもかゆいところに手が届かないのです。

そして、なんと言うのか、結局はかゆいところの周りを動き回っているだけのように思えます。

で、これらの議論をひとつの視点で読み解いてならべると、

やはり曼荼羅を描けるように感じられてなりません。

そして、その曼荼羅を描くとおそらく真ん中にすっぽりと大きな穴が開かれている。

ゲノムは、そしてすべての哲学は、その穴を埋めることで完結するとすら思えるように、

限りになく近づけるけれど決してその本質は見えないミッシングリンクが

曼荼羅の中央に鎮座しているように感じます。

 

で、時間と体力があれば、大きな模造紙を貼り足しながら、

思考の曼荼羅に挑戦してみたいなあとむかしから思っています。

ただ、これはおそらくとてつもない集中力が必要でしょう。

結局は何にもならずに終わるかも知れません。

その精神的・肉体的・物理的な余裕がまだまだ出てこないのです。