意味と記号
人は意味を持ったものしか認識できない。
この「意味を持ったもの」を記号と呼ぶ。
まあ、こういう表現はよく登場する。
だから「意味を持ったものしか情報にはなり得ない」ってのは
普通に考えて疑問の余地はなさそうに思う。
何かを考える時にアプリオリに意味があるとは考えない。
これが記号論の考え方だろう。
だから「認識する主体」のような捉え方をしなければならない。
こう考えた場合にゲノムを情報として捉えた場合の認識する主体とはなんだろう?
もちろん考えている私自身という答えはアリだ。
しかし、そういってしまえば議論は終わる。
では、DNA配列を情報として認識する主体はと考えれば
それはおそらく「細胞」となるだろう。
個体発生の文脈でいえば「卵」になるかもしれない。
これに比較すると、系統発生の文脈でDNA配列は
それ自身を情報として認識する主体が思いつかない。
それこそ、いまそれを考えている私自身ということしかなさそうに思う。
だから、系統発生、すなわち進化、の文脈においてDNAを情報と考える場合には、
メタレベルでゲノムを認識する主体なくして情報とはなり得ないのではなかろうか?
ゲノムを情報だという考え方に対する抵抗感のひとつはこういうところにもありそうだ。
情報がアプリオリに存在するように考えなければこの議論はできないと思えるのだが、
情報とはア・プリオリには成立できないものである。
だから、情報として認識する主体が無くてはゲノムは情報足り得ない。
DNAを情報として認識する主体を進化の文脈で別に見いだせるのだろうか?
こう考えると共時態と通時態の比較にも似た議論に陥りそうだ。
ただ、この議論ではたしか共時態を認識する主体とはその時代に生きる人であり、
それは一般論にされてはいるもののおそらく語り手自身が想定する存在だろうから
ゲノムを考える場合とはちょっと違うような気もする。
まあ、そうは言っても「細胞」という理想的なものを想定しているのも
研究者という意味でそれを考えている人の脳であるわけだから
結局のところは同じかもしれない。
この議論はまた別のところで。