空虚な日
カンブリア爆発の話を書こうと思っていたのですが、
なんだか集中できずに空中をさまよっていますので、また後日、気を引き締めて書きます。
大学時代に親しかった友人の一人が亡くなって日月と松山に行っていました。
悲しいとか寂しいとかではなく、何とも言えない空虚な気持ちになって
告別式のあとも20年ぶりに会った友人としばらくの間なにを話してよいか分からないままでした。
誰もが行く道だから悲しいことなんてないかもしれないけど,ちょっと早いですね。
彼女の肉体はこの世から亡くなったのかもしれませんが
彼女の崇高な気持・やさしさ、そして考えかたは
出会った全ての人の頭の中に「かたち」をつくって残っていくでしょう。
昨日はなんとなく酒を抜いてみました。
また今日から何事もなかったかのように普通の日が始まります。
『普通』って、幸せですよね。
以前、何かの本で作家さんの友人のお子さんが白血病と診断された時、なんてことない昨日までの日々が『幸せ』であった事を綴られていました。
身近な存在や事柄は失って、やっとその偉大さに気付く…誰にでも経験ありますよね。。。
恋人の手を握るとき、じっと握っていると握っている感覚がなくなります。
だから、相手の手をなでるようにたがいに手を動かしたりするのでしょう。
自分の体にしても,じっと同じところに触れていると触れている感覚はなくなります。
もう少し細かいところでは、
ホルモンや成長因子などが細胞の表面にある受容体に結合して何らかの刺激を細胞内に伝えますが
それは,ホルモンがずっと受容体に結合し続けているのでは刺激は入りません。
くっついては離れを繰り返さなければ必要な信号は細胞内には伝わらないのです。
今が幸せでも、幸せが常態化するとそれを感じなくなる。
生きものはとにかく変化がなければそれに気付かないようです。