現存する生きものが意味するもの2
科学の常識,
それは教科書に書かれているようなことでしょう。
それらは普通,疑われたりしませんし、
ほとんど全ての場合は正しいと思います。
ただ,個人的な「常識」として「思い込み」があります。
頭の中に、ある種の関係性を勝手に作り上げ、それを前提として次の研究に入る訳です。
個人的な経験をお話し致しましょう。
学生の時に、ある実験結果を得てからなんだかもやもやし始めました。
無意識化でもその研究のことを四六時中考えるようになりました。
何にもやもやしているのか自覚できないのですが
どうもなにか落ち着きが悪いのです。
その新しい結果を今までの結果に照らして判断すれば
その結果は自ずから入り込める場所があるはずなのに,
どうも何ともいえない気持ち悪さを感じるのです。
あるとき夢を見ました。
おそらく夢と現実の狭間でふらふらとしていたのでしょう。
私は飛び起きました。
その瞬間,すべてがすっきりしました。
そうなんです、今までの解釈を変えて見直したらよかったんです。
その時の私は夢の中で必死に要素の並べ替えをしていたのでしょうね。
今までの要素だけならそれまでの関係性が成立していました。
しかし,新しい要素の参加によってその関係性が不安定になったのでしょう。
そこで,今までの「思い込み」を全てなくして
現在の要素を安定に並べ直したら新しいかたちが出来上がりました。
この事実は何を示すのでしょうか?
思考という1つの関係性に新たな要素が加わって新しい関係性が生じたということは、
新しい遺伝子の獲得により新しいゲノムができると考えても良いのでしょうか?
確かにそう考えてもよいのかもしれませんが,
この場合の問題は、正しい関係性は既に存在しており
それの解釈として,要素の並べ方を間違っていただけなのです。
違う見方をすれば,新しい遺伝子を獲得したことでそれまでの関係性は保たれなくなったけれど、
それは新規遺伝子自体の働きによるものではなく、
新規遺伝子の生き残れる場がそこには存在しなかったことなのです。
でも新規遺伝子がすでに存在しているのだから、
新規遺伝子が生き残れる場も存在していなければなりません。
それまでの関係性に新規遺伝子を組み込んだから
新しい遺伝子の働きによって新しいかたちが出来たのではなく、
我々は気付いていなかったけれど、
その遺伝子が存在しているという事実は、
すでに新しいかたちが成立していたからなのです。
そもそも生物の論理とは、新しいものを作る論理ではありません。
結果として既に存在しているものを説明する論理なのですから,
過去を説明できても、未来を説明できる論理ではあり得ない。
生きものが存在しているということは,その原因が偶然であろうとも,
生き残っていた以上は必然であったと考えられるべきものなのでしょう。
「偶然」と「必然」は、少なくとも生きものの論理については
論理から導きだせる結果なのか,結果から導かれる論理なのかを考える問題なのでしょう。
あるゲノムに新しい遺伝子が加わったとき
その遺伝子がこれまでの関係性を維持できるのならそこに生き残れる場がある訳です。
しかし、これまでの関係性の中では安定に存在できないとしたら
そのゲノムは、体系としては存在できないでしょうから
新しい遺伝子を獲得したゲノムは消滅します。
しかし、何かの要員により新しい関係性が出来たらそのゲノムは生存できるかもしれません。
しかし、あらかじめ変化の方向が決められたような特定の関係性を
その遺伝子の働きによっては築き上げることは出来ませんから
新しい関係性を構築するためには試行錯誤を繰り返さなければならない。
その結果として、膨大な失敗例が出来上がるはずです。
しかし、それは結果として生存して来ないのですから
最終的に残った新規の関係性は,あたかも前もってデザインされたかのように
全ての要素が見事に関係性を構築していることになるのです。
ただしこの場合には、関係性の大規模な再編成が必要とされます。
普通,淘汰圧は現在の関係性を維持する方向に働きますから
少しでも変な関係性が途中で生じた場合にはおそらく淘汰されてしまうと思います。
だから、一気に関係性を変化させなければ新しい関係性は成立し得ない。
だからこそ、中間のかたちが成立し得ず、
したがって種というものは常にその他とは一線を画す独立した1つの体系になるでしょう。
種と種の中間にも,安定な関係を保てるかたちがあるかもしれない。
しかし、結果としてその変化を試行しなかったとしたらその種は現存しません。
「少しずつ変化する」と考える方がなんとなくそれっぽいと思えますが
たとえばキリンの首が伸びるようなゲノムのかたちを考えると
少しの変化も大胆な変化もおそらく大した違いはない。
だからこそ,少し変化して、また少し変化して・・・・を繰り返す方が
ゲノムにとっては大変なことだろうと考えられるのです。
関係性を構成する要素の数が少なければ
新しい関係性を構築することも低い確率であっても可能なのだろうと考えられますが、
大規模なかたちを根本から再編成することは
天文学的な確率の低さ、おそらく限りなくゼロ、でしか起こりえないと感じます。
ダーウィンフィンチのくちばしの形くらいなら
それに関わる遺伝子の数も少ないでしょうし,変異が影響する他の要素の数も少ないでしょうから
それほど大騒ぎをしなくても変えられるでしょう。
性淘汰に関わらない限りは体表の紋様も簡単に変わって構わない。
しかし、カンブリア爆発のように「門」レベルの変化は
普通に考えて起こりえないはずなのです。
ここで、かたちの規模を構成要素の数の問題としましたが
実はこの表現は少し問題があります。
構成要素を取り出すと、それがさらに下位の要素から成立するかたちである場合がある。
要するに,ある要素が関係性を持って集まり,それが意味として閉じたかたちとなれば
そのかたちは上位のかたちの要素になりうる。
クエン酸・オキサロ酢酸・クエン酸合成酵素・・・などが
特定の関係性を持ったら「クエン酸回路」となり閉じます。
クエン酸回路として閉じたら、クエン酸回路は電子伝達系に電子を供給するだけの意味となり
その意味さえ持てば、下位の要素であるクエン酸自体には意味がなくなります。
前回のお話で「ほんの微量の毒物を摂取する方がより健康でいられる」とありましたが、もしかして毒物も「微量」だとゲノムのはたらきを活性化させる、つまりこうした危機的状況を克服するための新しい関係性を構築させる起爆剤になるのかとも思いました。そしてすでにある関係性を持続させるとともに、こうした新しい関係性を常に試行錯誤できる能力とエネルギーがあるかないかが、生き残るか否かの分かれ目になっているような気がしました。
生物学も哲学も数学も全くわかっていないので、かなり的外れな発想かもしれませんが、「現存しているか否か」、「偶然」、「中間のかたちがない」、「関係性が意味を担うと繰り上がって上位の階層に入る」など、「0か1かの世界」、「二進法の世界」みたいなものを想像してしまいました。とにかく宮田先生と団先生の本を読んで少しずつ勉強していきます。
微量の毒物を摂取する方が健康であるというときに、毒物の意味を考え始めるとおそらく分子還元論の罠にはまるでしょう。自然界にはかならず毒物は存在する。自然界からも,コンクリートからでさえ、自然放射線が絶えず出ています。これは言葉を変えると,「大量に摂取したら体(命)に害を及ぼすものでも自然界には微量は存在する」となるでしょう。言い換えれば,私たちの周囲には毒物など存在しないってことです。塩だって一度に大量摂取したら死に至ります。だから、生きものにとって真の毒物とは,今までに出会ったことのないものだけだということです。生きものは,この環境の中で進化して来ました。進化して来たというよりも、日々この環境の中で子孫を育みゲノムを磨き上げて来たと思います。この環境中には限りないくらい「毒物」が微量に存在し,その中で生きものが維持されて来たとすれば、当然のごとくその環境に適応して来た訳です。だから,自然界に存在するありとあらゆる元素や分子は、それが自然界に存在している濃度においては生きものに取って有用なものであると言わざるをえません。とすれば、その微量毒素を排除した環境は生きものにとっては「異常な環境」なのです。我々は何かを単離し、その性質を研究します。それが、我々が持っている実験系やその精度によって有害だと判断されても,それらが一定の割合で存在している環境で何万年も生きて来た訳ですから,それらが決定的に有害であるはずはない。そう考えるべきではないかと思います。
だから最近の極度な無菌主義や潔癖主義は,自分(ゲノム)の環境を破壊しているとしか思えません。我々は土の中で転げ回って生活して来た訳で、そこに存在する細菌や様々な生きものに触れ,頻繁に口にいれたりして生きて来ました。その過程で外界から様々な信号をもらい、たとえば免疫系を確立させ,その他の体のシステムを磨いて来たことでしょう。我々の体(ゲノム)は、このような環境に適応するように進化して来たのです。先日書いたように,自然界に存在しないくらい大量の放射線を浴びたり、ヒトがこれまでに経験したことない量の毒物にさらされたりするのがよくないのと同様に,今までヒトが経験して来た微量元素や自然放射線など、あるいは周囲の細菌や微生物などを排除することも異常な世界なのだと思います。では、普通に暮らしていれば絶対に出会わないくらいの高濃度で「サプリメント」を摂取する行為はどうなるのでしょう???この答えはこの先何世代か先に分かるかもしれませんね。
少量の毒物うんぬんで真っ先に頭にくるのは『薬』と『毒』、『発酵』と『腐敗』これらは人間に得か損かで紙一重ですね。そして太古の生物は『酸素』は猛毒であったのに、今は酸素がなければ生きていけない生物が多いこと。
話はそれますが『かたち』に関してど素人の感想。『かたち』といえば動物の体や植物の形が先ず思い付きます。日本人がどんなに金髪にあこがれようが、最近は日本人もスタイルが良くなっていますが、それでもアフリカ系や欧米人の様にスラリとした長い手足や彫りの深い顔立にはならないのに、自然界に目をやると擬態をする虫や動物、遠くまで種を飛ばそうとタンポポの綿毛やグライダーの形のように種なる植物。ウイルスも生き物として、精密機械の様なあの形にはどうしてなるんだろ?と考える事があります。クリスタリンがそうだったようにたまたまそうなったのが生き残っただけなんでしょうか?
ど素人の思考はここ止まりなんですが…(^_^;)
もちづきさんのおっしゃる通り,猛毒である酸素濃度が20%にまで跳ね上がったことこそがカンブリア爆発の大きな意味だろうと思っています。教科書には、「温暖化した」とか「酸素濃度が現在と同じレベルに上がって生きものが生きやすくなった」とか書いているものもありますが、その当時の生きものにとってそんな変化が「生きやすい」はずはないでしょう。
この議論はもうすぐするつもりです。もしかしたら次回の「かたちを考える会」でのテーマにしても良いかもしれませんね。大進化と小進化の意味を整理できるかもしれません。