進化の意志
こんなタイトルを付けるとお叱りを受けそうな気もしますが、
まあちょっとお付き合いください。
普通の状態(本当は普通という言葉に説明は必要でしょうが)でも
変異は中立的に起こっているし時間とともに生きもの(ゲノム)も変化するでしょう。
それは、一般的には「少しでも有利な変化」が残るとされています。
ただ、この「少しでも」ってのは直感的には分かりますが、
よく考えるとわかりづらいように思います。
少しくらいなら多形の中に治まりそうなものだと感じるからです。
さて、ここで考えたいのは環境の大規模な変化です。
要するに、これまでのままでは生き残られないくらいの変化の下で、
進化というものにどのような圧力がかかるのかということです。
もちろん、ゲノム全体に対し中立に変異は起こりうるとします。
その際に、「普通の」環境下での「少しでも有利な」変異くらいではまったく歯が立たない。
酸素濃度が極端に上昇した、あるいは極端に低下したとか、
急激な温暖化、あるいは寒冷化など何でも構いません。
とにかく、これまでのゲノムでは生存ができないような環境の変化です。
その場合には、中立に変異は起こりますが、
その変異にかかる圧力に明確な方向性があるはずです。
もちろん結果論として一定の方向が見えるということなのでしょうが、
とにかくその急激で極端な環境変化に対応できる変異のみが選択されなければならない。
それ以外の変異はすべて淘汰されてしまうわけですから、
結果として後世に残る生きもの(ゲノム)はその環境に適した変異を持つものだけとなるでしょう。
これは論理的にそう考えざるを得ません。
この結果を見た場合に、「この環境変化に対応するように進化した」と結論付けることに
違和感を覚えないのも無理からぬことではないかということです。
たとえば、その環境変化に対応できる変異にも複数の選択肢があったとしましょう。
しかし、すべて偶然の賜物である進化においては、
たまたま獲得した有益な変異のみが固定される場合が多いと感じます。
それを後世に生きる我々が見ると、どうしても合目的的な進化を遂げたように見える。
というか、実際に合目的的進化を遂げた(ように見える)生きもの以外は残らないとしたら、
そう結論付けたくなるのも分かるような気がするということです。
これが「普通の進化」とは異なると感じられることで、
普通の状況での進化なら、中立的な変異による多形を、
周辺環境と比較してのんびりと淘汰圧をかけ選択していけば良いのでしょうが、
緊急避難的な進化の場合にはのんびりとはしていられない。
ここに進化の意志のようなものを感じるような気がします。
カンブリア爆発で大規模な進化が起こりました。
現存するほぼすべての動物門が爆発的に確立しました。
その理由を世界終末戦争にも似た環境変化に対する
「緊急避難的」進化であったのではないか?と私はこの欄でも書いています。
カンブリア爆発を考えている場合にはあまりに大規模なので逆に進化の意志を見いだせない。
もう少し弱い、しかし生存には致命的である変化に対応する場合には
定向進化のように見えるのはありうるのではないでしょうか?
というか、結果として他に変わりようがない、
変わる方向はひとつしかないような場合に、
「定向」と考えても良いようにすら思ってしまいます。
橋本がこんなことを考えることがちょっと不思議に思いませんか?
単に、「なぜ、獲得形質は遺伝すると考えられたり、
目的を持って進化すると専門家ですら考えがちになるのか?」について考えていて、
ひとつの答えになるのかも?って感じただけのことです。
まあ、こんな理屈よりも、人間の情緒的な部分の影響が多大だろうとは思いますが、
このようなことば遊びにも「意志」というものの意味が見え隠れして面白いと感じます。
拝読し、「後から見て意志が働いたと見えるものは、過去の一時期の周囲の変化が強からず、弱からずだったことを要求する」、ということは言えそうだと思いました。
周囲の変化が強すぎて、多様すぎる結果がそのまま残ったら、意志が働いたと思えなくなる。
周囲の変化が弱すぎたら、淘汰圧が弱くて中立的な変異による多形が残り、これも意思が働いたとは思えない。
さらにちょっと意識的に言い過ぎた表現をすれば、「意志というものの意味とは、多様すぎることを抑制した状態を指す」とも考えられますね。おもしろいです。
これは15日の進化の集まりでの岡田先生の話をうけての文章です。岡田先生はどうも「合目的論的」な話をしすぎるように思います。進化なんて一回こっきりのものだから本当はどうだったのかは誰にも分かりません。でも、少なくともいまの科学では「合目的的」な説明は間違えているとされます。だからこそあのような話し方は専門家として一般の方へ話す時には意図して慎むべきだろうと感じるのです。進化は中立的変異と自然淘汰で説明されるものであり、何かの変異が残っているのはたまたま偶然に過ぎない。それを、「ほ乳類の出現は○○のせいだ」と説明すると多くの人に誤解を与える。特定の遺伝子にだけ○○のせいで変異(例えばSINEがエンハンサーの一部として機能すること)が固定されてほ乳類を作ったのではなく、いかなる変異も中立に起こったのだが、その時期の環境変化、この場合は酸素濃度の低下、が特定の変異だけを残すように「淘汰圧をかけた」と理解されるべきでしょう。環境変化が特定の方向への変異を誘発したのではなく、特定の変異だけを固定した結果としてあたかも特定の方を向いて進化しているように見えただけだということです。外適応も、新しい遺伝子の獲得がなくても元々あった遺伝子を別目的に使い回すことで進化は起こるということで、これは明らかに「定向」あるいは「合目的的」とは真逆の概念ですが、この外適応にあたかも意志がある(ように聞こえる)説明をする。「キリンの首はなぜのびたのか?」の説明は「高いところにあるものを取ろうとしてだよ」ではなく、「わけが分からないうちにいきなりのびてしまった。それがなぜかわからないけれど環境に適応して残ってきた」でしょうね。キリンの首も外適応もコラムのどこかに何度か議論していますのでお時間のある時にでもご覧ください。
ところで、エラそうに書きながらも私は自説が絶対に正しいと主張できるほどの自信家ではありませんから、先生としての立場もとれず、上から教えることもできません。ただ、私の文章から読者の方々が空想を膨らませて進化のことや生き物のことを考えてくださるとすれば至上の喜びです。私のつたない文章から様々な方が多様な考えを創造(想像)される。元の文章を書いた私が思い至らなかった内容に至るとすごく感動しますし、たとえそれが私の言い分の誤解に端を発しているにしても、その誤解に至った論理を考え続けることで新たな発見が私自身にも起こりますから、これがまた面白いし大切なのでしょう。
なるほど、私は、橋本さんの意図とは正反対に誤読をしたのですね。
私は
「ここに進化の意志のようなものを感じるような気がします。」
とあるのを、
「ここに進化の意志のようなもの」を橋本さんが感じる、と錯覚しました。
この私の錯覚の文脈で読むと、
「「定向」と考えても良いようにすら思ってしまいます。」
が、
「「定向」と考えても良い」と橋本さんが思っている、と読めるなど、
橋本さんの意図とは全く逆に意味づけをし、
うん、なるほど、と思って、コメントした、というわけでした。
それで、自分が誤読したとは分かりましたが、
いわゆる「意志が働く」という表現の一般的な意味について述べたとみなせば、
「後から見て意志が働いたと見えるものは、過去の一時期の周囲の変化が強からず、弱からずだったことを要求する」や、
「意志というものの意味とは、多様すぎることを抑制した状態を指す」
という内容自体は、それでも正しいようにも思えてしまうんです。
特に「意志というものの意味とは、多様すぎることを抑制した状態を指す」という視点は
自分で書くまで、私自身には無かった視点でした。
一方で、意味は文脈に依存するのであり、「一般的な意味」は存在しない、とも思うのですけれどもね。
まさにおっしゃる通りだと感じます。こういう考え方、考え方というよりも論理的に考えるということ自体がまさに科学の醍醐味だと思うのですが、どうも普通には「ことばで論理を組み立てること」と「科学(特に自然科学)」は正反対に見られる傾向が強いと感じます。日本ではことばの論理構築を「屁理屈」と見なされる傾向が強いような・・・・。まあ、それはそれで構わないのですけど、この辺りに近年の「理科離れ」の大きな原因があるような気もします。子供が自分なりにいろいろ考えたり疑問に持ったりしても、それを口にすると先生から「屁理屈」といわれる。こんなことが続けば理科に嫌気がさしますよね。