カンブリア爆発についての雑感
なんか、以前もどこかに書いたような文章を最近ずっと書き続けているような気がします。
同じことについて書いたり話したり考えたりして行くうちに、
一人で考えたことなのか、誰かと話をしたことなのか、それともすでに公表していることなのか
現実と妄想の間に入り込んでしまっています。
最近では文字を書きながらしばしばデジャビュをみています。
以前は、同じことを二度繰り返す愚行を恐れるあまり 文章に表すことをためらっていましたが、
今では、内容が重複しても構わないではないか!と開き直っています。
人はその時に持っている受容体が認識できる意味しか理解できないので、
その時の心の有り様によって、あるいは新たに触れた考え方によって
同じ文章を読んでも違った捉え方をしてくださるはずだと割り切って、
また、いくつもの新しい考えに触れて私の頭の中も多少は変わっているでしょうから
同じ内容を書いたとしても全く同一の内容にはならないと開き直って、
最近は思い立った文言をそのまま書き込んで行くようにしております。
さて、カンブリア爆発。
カンブリア紀の地層には現存するほとんど全ての動物門の化石が見いだせるのに
その直前の地層からはきわめて少ない種類の動物の化石しか見いだせません。
数億年の単位で計られる生きものの進化の非常に大きなところが
たかだか数百万年のうちに起こったとしか見えないこの事実から
カンブリア紀に爆発的生物種の増加が起こったと考えられています。
恐るべきことは、種の多様性などという生ぬるいことではなく
門のレベルでの多様性が一気に起こったということです。
これをダーウィン的な「遺伝的多形と自然淘汰」で説明するとすれば
おそらく何十億年かかっても実現し得ないくらいの大変革だったのですから。
(カンブリア紀以降の新たな門の確立は5億年以上かかってクマムシ門ひとつです!)
これに関して、宮田隆博士から進化の「ソフトモデル」が提出されています。
新しい種の確立においては新しい遺伝子の獲得が必要であると多くの研究者が考えていますが、
現存する多細胞生物の基本遺伝子群を持つ種が系統的にどこまで遡れるか調べたところ
それは、カンブリア爆発が起こったよりもさらに数億年前に存在していた単細胞生物の子孫である
立襟鞭毛虫(たてえりべんもうちゅう)で既に獲得していたことが分かりました。
ということは、カンブリア爆発の遥か以前に一通りの遺伝子のセットを全ての生物が持っていた訳で、
ここから、新しい種の確立には新しい遺伝子(ハード)の獲得ではなく
既に持っている遺伝子同士の新しい関係性(ソフト)の獲得が重要だろうと考えた訳です。
これを端的に表現すれば、
ゲノムの構成要素としての遺伝子をチンパンジーとヒトの間で全て入れ替えたとしても チンパンジーの遺伝子に置き換わられたヒトゲノムはヒトゲノムとして ヒト由来の遺伝子を持つチンパンジーゲノムもチンパンジーゲノムとして
それぞれが存在しうることを示すわけです。
チンパンジーとヒトの違いは遺伝子の違いではなく
遺伝子が形づくる関係性の違いであり、
だからこそゲノムとは関係性として考えられるべきだということです。
この話を知ったとき鳥肌が立ったことを今でも覚えています。
なぜなら、系統発生や進化などに全く興味のなかった私が
単純に個体発生を見ながらたどり着いた考え方と全く同じだったからです。
宮田博士は「ソフト」の具体像を明らかにしていません。
私も同様に、関係性と言う漠然とした言い回しでしか表現できていませんが、
その行き着く先はおそらく同じであろうと思います。
この時に初めて系統発生と個体発生の意味に思い当たり
そこに流れるゲノムの意味に考えが及びました。
しかし、研究者としては色即是空空即是色であるという危惧を覚えます。
ソフトの「かたち」を具体的に物質をもとに考えた瞬間に
その意味は霧のごとく消え去ってしまうのではないか?
「色すなわちこれ空なり」をまともに体現してしまうのではないか?ということです。
ソフト、すなわち関係性はモノとモノとの間のことですからそこには物質は存在し得ません。
その「真空」の中に本当の意味が隠されているとすれば
これは遺伝子自体の意味を物質的に考察することの危険性を物語っているのかもしれません。
遺伝子を物質として認識した時点で、上位のかたちはゲシュタルト崩壊をおこします。
これを果たして私たちはどのように考えれば良いのでしょうか?
言語を考えると、たとえば私たちは「行間を読め」のようなことを言います。
言葉自体が、単語と単語の間に存在する関係性によって意味を持つ訳で、
だからこそゲノムと言語の相同性が議論されてしかるべきなのですが
その言葉と言葉の間(行間)にも意味付けをするということを考えたら
団まりなさんの言う「階層性」を考えないわけにはいかなくなって来ます。
「「口と肛門を解剖してみよ。」もちろん解剖はできない。口や肛門に実体はないからである。しかし口と肛門を指で指すことはできる。しかし「口だけ」を取り出すことはできないのである。」
このコラムを読んだとき、養老孟司の『からだを読む』の一節を思い出すとともに、本質を追究する人は同じような壁にぶつかるんだなとつくづく実感してしまいました。それで彼は口や肛門を言葉で説明することの難しさを説きながら、その構成要素である唇、舌、歯などの解説に入って行くのですが、ゲノムの場合、ゲノム全体を取り巻く周辺要素というと何になるのでしょうか。
またある物理学者が「光」を「粒子」や「波」といった既成概念でしか説明できないもどかしさを訴えていましたが、ゲノムの関係性の場合、身近な類似モデルというと、やはり言語体系ぐらい抽象的で複雑なものしかないのでしょうか。
いずれにしても関係性を言葉で説明することの難しさは、「実体を扱えない」ことや「論理体系の違い」もさることながら、うまく表現できないのですが、「関係性を思考・認識する=立体的・3次元」、「言葉で説明する=線的・1次元」といった「行為の次元の違い」のようなものにもあるような気がしてしまいます。
光の「粒子」と「波」に関しては確か養老さんが「かたち」と「はたらき」の議論をしてませんでしたっけ?
ところで,表現するってことは何らかの形で切り出してくることだと思いますから,ある種の主観的なカテゴリー化をしなければならないでしょう。しかし,当然のことながら頭の中に出来上がっているかたちは何らかのカテゴリーによって切り出されたらその意味が変わると思いますから、結果として「言葉では表現できない」ってことになるのかなと漠然と思っていました。切り出すって行為を経るとなにがしかの断面を見ている過ぎないとも考えられ,ということは頭の中のかたちは立体(3次元)であり,その断面だから平面(1次元ではなく2次元になっちゃいますが)であるって感じになるかもしれませんね。光という実体も、視覚の情報としてカテゴライズし切り出すと粒子として認識され、聴覚の情報として切り出されると波になるってことでしょうか?よくわかりません。