続・単語とかたち

 

先日、「かたちの入れ子構造」の話を書きました。

「複数の単語(要素)の関係性により規定されたかたちとしての単語が、

次には要素となって高次のかたちを形成するという感じでしょうか」というものです。

 

この議論で、英語を書いている瞬間を思い浮かべます。

わたしが英語を書くときは、言いたいニュアンスに近い日本語をかなり広い範囲で取り上げて、

それに当たりそうな英語を和英辞典で検索します。

もちろんそこには複数の単語がでてくるわけで、

それらのどれが適当なのかを判断するために例文をみます。

だから、単語数の多い辞書よりも例文がしっかり載っている辞書の方が優れていると思います。

英文(例文)がその単語の意味を規定しているから

言いたい表現に最も近い表現のできそうな例文を探すこととなります。

多くの場合、この結果として単語だけではなく文章をそのまま取ってきます。

 

まあ、この過程で十分なときもありますが、

たいていの場合はいま一つ決めきれなくて英英辞典に頼ることとなります。

そこで、先日の「辞書の意味(定義?)」の話になるのですが、

英英辞典で引くと英単語の意味が英語で書かれています(当たり前だ)。

これが日本語で書かれているよりもその意味を取るのには優れていると思うのですが、

その中に知らない単語があったとき、それも英英辞典で引いたとしたら、

それこそ、かたちとしての単語の意味が次に要素となって高次のかたちを作り、

そのかたちが閉じて要素となり、さらに高次のかたちを作るという入れ子になるわけです。

まあ、こう考えるだけならそれで良いのでしょうが、

仮に「高次」と説明したものの、これらには絶対的上下関係があるわけではなく、

それこそ上位が下位に、下位が上位にとぐるぐる回って関係性が成立する

まあトリックアートのような状況を呈するわけです。

この関係性をいかにして理解するかというところに難しさがあるように思います。

単なる機械と歯車であれば団まりなさんの言う「階層性」でいいのでしょう。

しかし、おそらく単純な階層では理解できない関係性、

上だと思ってなぞっていけばいきなり下だと気付くみたいなかたちで、

初めて曼荼羅を見たときのような不可思議さに襲われるのです。

その「単純に記載できない階層性」こそが言語やおそらくゲノムが持つ何かではないか?

まあ、これは半分ことば遊びで終わる議論のようにも思いますが、

でも、意味付けるということを考えると

この「堂々巡り」から抜け出す何かに重要な「意味」が隠されているようにも思います。

お釈迦様は輪廻転生の環から抜け出して悟りを拓いたと言います

(逆かな?悟りを拓いたから抜け出せたという方が適当かも)。

ゲノムに対して「悟る」ということはどういうことなのでしょう?

まだまだ苦行は続きますね・・・いや、お釈迦さんは苦行をやめたんだったっけ。