単語とかたち

どこかで読んだようないつもの話です。

 

ある言葉の意味を考えます。

まあ辞書に載っている言葉とお考えください。

だから特に単語に限らなくてもけっこうです。

辞書にはその言葉の「定義」みたいなものが載っています。

もちろん厳密な意味での定義ではありませんが、

我々は辞書を引く時に、その説明を定義のような感覚で認識していると思います。

そう考えると、その単語は定義(様々な別の単語からなるかたち)として認識できます。

認識できますというよりも、そう考えがちになります。

だから、かたちの入れ子構造がここにあらわれてくるわけです。

複数の単語(要素)の関係性により規定されたかたちとしての単語が、

次には要素となって高次のかたちを形成するという感じでしょうか。

でも、たとえば明らかに絶対的な定義の存在するもの(たとえば科学用語とか)ならともかく、

多くの言葉の意味は上位の構造によってのみ規定されるはずです。

数多くの構造(この場合は日常的に用いる文章表現)により、

その単語の意味は規定され切り取られるわけで、

だから文脈が異なれば意味が異なるということも普通にあるわけです。

で、上位構造の中での立ち位置というか存在意義というものがその単語の意味となるので、

その「意味」を辞書で説明するということは

「定義」に似た感覚とは完全に異なる様式だろうと思えるわけです。

すなわち多くの上位構造により規定された意味の

最大公約数的な「雰囲気」を説明しているのが辞書であり、

厳密な意味での定義とは必要にして十分でなくてはならないわけです。

こう考えた場合に単語というものの存在意味は

その下位構造には決して依らないということができます。

この意味において専門用語などとは明確に区別されず

単なる「単語」あるいは名詞などとして一緒くたにされれば

おそらく言語構造の全体像が歪んで見えるように思います。

したがって、「定義されうる単語」などの特殊な場合を除いて、

一般の単語は、ゲノムを考える上での構造遺伝子と同等と考えて良いのでしょう。

 

まあ、ダラダラと書きましたが、

遺伝子も単語もその意味はア・プリオリには存在しないという、

構造論の大元に戻っただけの話です。