久しぶりの休日
年が明けてからずっとバタバタしていたような気がしますが、それも月曜日の岡山で一段落しました。
で、今日は久しぶりに精神的に落ち着いた休日です。
須磨の拙宅でひとりぼーっとしてます。
風呂が好きなので、すでに朝からのべ3時間ほど風呂に入って読書をしていました。
ところで、またゲノムの話を考え始めています。
それを言葉のアナロジーとして見ようとしていることに気づきます。
ゲノムとは、ある生物種を作り上げる論理体系と見られるでしょう。
言語もひとつの論理体系です。
これまで(いまでも)言語とゲノムの類似性が議論されますが、
アルファベットなら26文字、ゲノムなら4文字の記号の並びで意味をなす
表面上の類似性で単純に語られるだけでした。
タンパク質の暗号部分が言語の単語に当たり、
それを理解することで生き物を理解しようと試みるのみでした。
さて、ある言語が異なる言語に変わることは何を意味するのでしょうか?
先日も議論しましたが、日本語に外来語としてのレストランという単語が持ち込まれても
それは日本語を構成する要素の一部になるだけで、言語自体が変化するものではありません。
では文章を入れたらどうなるのでしょう?
たとえば恋人同士が語り合っている途中で、I love you.と言ったとします。
これも、おそらくI love you.という英語の文章そのものが
日本語の論理体系の構成要素として存在するに違わないのだろうと思います。
では、これはどうでしょうか?
「あの、お前が持っている本が面白そうで興味があるねん。だから
I would appreciate it if you could possibly give me the book, please.」
なんてやりだしたらもはや日本語の論理体系は成立しないような気がしますよね。
もちろん、英単語の数が多くなったから日本語の体系が崩れたのではありませんよね。
「meは、youのhaveしてるbookをgiveしてほしいんだよね」とすれば
これは、頭の悪い文章ですが、日本語である訳です。
このような言葉は実は我々研究者はよく話します。
自分でも程度が低いと思いながらも一種の職業病でしょう。
「paperはreviewerをconvinceしたらacceptanceをgetできるんだから・・・」のような会話を
日常的にしているのですから。
逆に、This is a pen.を全て日本語の単語に置き換えて 「これですひとつのぺん」としたらどうでしょう?
もはや日本語ではありませんよね?
高校の英語の時間にするような逐語訳が非常に読みにくいのは
日本語として体をなしていないからであるし
翻訳には、外国語の能力ではなく日本語の作文能力が重要だと言われるのも当然なのです。
やはり日本語から別の言語に変えるためには
日本語とは異なる論理性・関係性をそのまま埋め込まなくてはならないようです。
近年の生物工学の技術は、異種遺伝子の導入や特定遺伝子の破壊を可能にしましたが
それによって種が変わったということはありません。
それはおそらく上に挙げた言語の例と同じ意味なのではないでしょうか?
だからこそ、カンブリア爆発の時に高々数百万年程度で
現存するほぼ全ての動物門が出来上がったことに興味があるのです。
新しい遺伝子の獲得などでは門どころか種を変えることすら無理でしょうから
ゲノムの論理体系に影響する何かが起こったとしか考えられない。
これは進化の話ですが、発生学の研究と同じ答えに行き着くと感じます。
「ゲノムが遺伝子の単なる集まりではなく、ある生物種を作り上げる論理体系」だとしたら、現在の生物学は遺伝子が作り上げる関係性と、それを表現する手段を模索中ということでしょうか。そしてゲノムはそれぞれの生き物に独自なもので、こうした多様なゲノムのありようから共通項を見いだすことで、初めて「生き物の普遍性」が見えてくるということでしょうか。高校以来、生物学から遠ざかっているので抽象的にイメージでしか捉えられないのですが(これを機会に少しずつ勉強しようと思っているのですが…)、実際に生き物に触れながらこうしたことを具体的に追求できたら本当におもしろいんでしょうね。
ところで全く話が変わりますが、「永平寺の朝」というコラムを読んで、以前、僧侶の玄侑宗久さんが新聞に書いていた記事を思い出しました。彼によると、「言葉を用いた理知的な見方は生のリアリティーを感じるには不向きであり、ブッタは理知によらない体験的な知の様式として「般若」を説いた。そして「般若心経」を唱えている時は、覚醒しているのに思考していない貴重な状態で、ロジカルでない脳の使い方により直感力が鋭くなり、本来「いのち」が持っている生命力に気づくことができる」とのことでした。それで橋本さん(「先生!」のコラムを読んでしまったのでこのように書かせて頂きます)が般若心経を聴かれていたことに何だか納得してしまいました。
ゲノムは生き物の論理だと思っています。しかしそれはゲノムでしか表現できませんから、我々は、別の論理体系で表現しなければ理解できません。物理学は数学の大系を使うことで宇宙を理解しました。しかし私たち生物学者にはそのような発想はなかなか生まれず、どうしても西洋科学的な「個から始まる科学」すなわち「分析する」ことを方法論に取る方向に考えてしまいます。その極端な例が、政府主導で大金をかけて動かしているいくつかのプロジェクトでしょう。「網羅的」と称する学問大系は、たとえばマウスの遺伝子をひとつひとつ全てノックアウトしたらマウスが分かるという哲学です。そして私はこれを否定します。すると、現在の生物学の世界ではかなり異端児になってしまいます。でも、遺伝子をいくら最先端の手法で調べても生き物はわからないと信じておりますからそれはそれで構いません。
ゲノムの関係性を考えるとどうしても曼荼羅を思い浮かべないわけにはいかない。わかる人の頭の中には当然のごとく曼荼羅の意味(かたち)が入っている。しかし、人に伝えようとすれば、一旦は言語と呼ばれる全く異なる体系に翻訳をしなければならないので、伝えられたものには全く理解できません。それでも、繰り返し繰り返しあらゆる例えを引き、あらゆる表現方法で伝え続けるとある瞬間にその人の頭の中に曼荼羅のかたちが出来上がる。知識という「要素」は既に持っている。それらを全く新しい関係性に並べ替えることが出来た時、「悟りを開く」のではないかと思ったりもします。
私はかたちの哲学を勉強し始めて25年は経とうとしますが、最初の15年は全く理解できていなかったのです。書物に書かれていることば自体は分かる。しかし、そこから「かたち」を理解できない。だから、レクチャーや講義・講演でかたちの話をしてもおそらく一人も本質的には理解してないだろうと思っています。それは私が優秀で、他の人たちが愚かだからではなく、私に出来上がっているかたちが皆さんには出来ていないから私ごときの稚拙な話を聞いて皆さんにご理解いただけるとは思えないからです。だからこそ、もっとゆっくり話し合いたいのですが、方法論的にそのような時間をとれない。これが問題ですね。