言葉の意味と形、そしてゲノム
ある言葉の意味は、その言葉が使われる状況や文脈によってのみ決まると
私はよく話します。
そもそも、言葉や単語がア・プリオリに意味を持っていて、
そのような単語達を並べて意味をつくるのではないということです。
だから、私の周辺だけで通じる「奈良の大仏」の意味も、
その言葉が使われる環境や文脈無しには成立しません。
Restaurantという英単語は、英語の文脈によってのみ規定されます。
外来語としての「レストラン」は、実は日本語の文脈によって
その意味が決まる「日本語」なのです。
英語の文脈から規定されるrestaurantの意味は、
カタカナ標記されるレストランの意味とは異なりますよね?
日本料理屋をカタカナでレストランとは呼びませんよね?
意味は新しい言語体系によって規定されるので、元々の由来が同じ単語であっても
restaurantとレストランではその意味は決定的に異なるということです。
さて、ここでソシュールの構造論を説明するために私がスライドで
ご紹介する言葉をあらためて眺めてみましょう。
「記号自身の中に意味が存在するのではなく、それを取り巻く
他の記号たちとの「関係性のネットワーク(体系)」の中でのみ意味を持ちうる」
「物事に絶対的な意味は存在し得ない。
それがどの文脈に置かれるかによってその意味は変化する。」
「ある言語体系から別の言語体系に変化する際に「生き残る」のは
実質の方であって形式ではない。
新しい体系内で適応できる、つまり新しい体系内で新しい形式的役割を
与えられるような「実質」だけが生き残るのである。」
「発音が似ていたり語源的につながりがあっても言語形式上の同一性は全くない。
特定の構成要素が生き残った理由は、連続した体系の変化において、
その要素が占めることのできる「場所(構造的位置)」がその体系内に存在したからである。」
「生き残りの成否を左右する「適性」の基準は、一連の構造化された諸体系において
場所を見つけることができるかどうか、そこに「うまく入り込む」ことができるかどうかにかかる。」
どうでしょう、これらの言葉の意味が何となくスッと入って来ませんか?
私の話をお聞きくださった方なら既にご理解頂いていると存じますが、
私はこの概念を、言語の話からゲノムの話へと飛躍して考え始めています。
私たちの身体を形づくるのはゲノムの情報です。
そしてゲノムは遺伝子の集まりだと理解されているので、
どうしても「遺伝子を解析すればゲノムが分かる」と考えられがちですが、
「これは絶対に間違っている!と私は主張するのです。
すべての単語を徹底的に理解すれば日本語という論理体系が理解できる!
なんてはずがないと思うのです。
論理体系は、体系(かたち)である以上は構成要素の関係性においてのみ意味を持つので、
構成要素だけをいくら調べても意味がない。
逆にrestaurantとレストランの例のように、その遺伝子はア・プリオリに意味を
包含している訳ではないのです。
私たち哺乳類の身体を形づくる遺伝子と同じと考えられるものはショウジョウバエにも見つけられますし、
実際にある遺伝子を人工的に壊したマウスにショウジョウバエの相同遺伝子を導入してやれば、
そのショウジョウバエの遺伝子はマウスの身体づくりに働きます。
ここで重要なのはその遺伝子はショウジョウバエの遺伝子として働いたのではなく、
あくまでもマウスゲノムという体系の中で、その他の構成要素と
正しい関係性をつくるという意味においてマウスの遺伝子として
働いたとしか言いようがありません。
逆の例としては、クリスタリンがあげられます。
クリスタリンは元々は消化酵素ですが、進化の過程で眼の水晶体形成にも利用されました。
ここで、眼の獲得とクリスタリンの関連を議論される研究者がおりますが、
これは「たまたま」だとしか言えません。
あくまでも偶然であって、逆に大量生産されて結晶化し、
その結晶が光を透過できる蛋白質であれば他の何でも構わなかった訳です。
生物学の研究者である私が、門外漢であるにもかかわらず
かたちの哲学の議論をし続けているのはこのような意味があるのです。
このように考えると、カンブリア爆発で現存するほとんど全ての
動物門が出来上がったという事実は、ゲノム版バベルの塔になるのでしょうか・・・・?
ソシュールの言葉は言われてみれば非常にもっともなことのように思われますが、そもそもそのように思えるのは、ソシュールをはじめ多くの人が気の遠くなるような緻密な作業を通して、こうしたことを「構造主義」として意識化し、体系化し、概念化してくれたおかげなんですよね。ところで21世紀において「生きものとは何か」を考えいくということは、この構造主義の考え方に基づきながら、構成要素の遺伝子ではなく、そのまとまりであるゲノムを手がかりに考えていくということでしょうか。もしそうだとしたらこれを具体的に、しかも多くの人が共感できる形で提示するというのは本当に本当に難しいことですよね。しかしその一方でこうした取り組みが、構造主義に続くような新しい概念を生む可能性を秘めているとしたら、ロマンを感じさせるテーマすよね。とにかくもう一度腰を据えて『かたち論』を読み直してみます。