淘汰圧がかかる先は

自明の理といわれればそれまでなのだが、

淘汰圧は遺伝子が織りなすゲシュタルトにかかるのではないか。

これは単純な話で、

遺伝子そのものには意味はない。

意味はその遺伝子がかたち作るゲシュタルトがもつ。

そして、遺伝子に変異が起きた場合にも、

ゲシュタルトに影響を与えなければその変異はなかったものとなる。

しかし、ゲシュタルトに影響を与えれば、

即座にその変異は外部からの淘汰圧を受けることとなるはずなのだ。

 

しかしこれまでこの議論がなされてきたのかよくわからない。

まだ遺伝子というものの実体がなかった頃に

ウォディントンが運河モデルを打ち立てたが、

その頃の遺伝子の概念とは、

現在の遺伝子の概念(例えばシストロンみたいなもの)よりは、

もっと現象に近い、遺伝子が織りなすゲシュタルトのようなものであったと感じる。

これが大腸菌の研究であればそれほど問題はなかっただろう。

シストロンとゲシュタルトの間が大きくない、

まあせいぜいオペロンがゲシュタルトのような感覚で済むわけだから。

だからこそ、その研究の技術的なやり易さを除いたとしても、

大腸菌で分子の言葉での遺伝子が研究されたのは意義深いような気がする。

 

さて発生に遺伝子を持ち込むことの意味であるが、

これが私にはなかなか難しい。

この場合の遺伝子とは分子的な意味合いであり、

まあ言ってしまえば分子発生学の存在意義がよくわからないのである。

なぜいきなり「発生」を言い出したのか、

それは淘汰圧をまともに受ける大きな対象として発生現象があるからである。

発生とはゲノム情報を具現化する過程であり、

いまの進化は少なくとも見えるかたちにこだわっているわけで、

だからこそ古生物学のように化石のかたちが重要なのである。

で、その外部形態を作り上げるのが発生の一義的意味である以上、

発生が正しく行なわれない変異は進化の過程を生き残って来れない。

 

だから、遺伝子ネットワークという分かったようで分からないモノを解析して

何が分かるのかって問題が現在の大問題かもしれない。

ゲシュタルトが単なる遺伝子ネットワークとして語られて良いのか?

それは、希望的には「間違っている」。

遺伝子が織りなすゲシュタルトは、

必ずしも分子レベルでの直接的相互作用を要求しない。

発生過程において時間的空間的に離れていても、

その意味において密接に関係づけられるものであれば

それはゲシュタルトと呼べるだろうと思うからだ。

 

システム生物学なる言葉が最近流行りである。

少し前は「○○オーム」だったし、

とにかく網羅的に解析した結果、

手に余るくらいの情報を目の前にして、

「さてこれからどうしよう?」って苦悩が見て取れるようだ。

強い偏見の色眼鏡を通して見ていると、

「網羅的に解析したら、自ずから何か見えてくるはずだったのに・・・」って

悲鳴にも似た声が聞こえているような気さえする。

大腸菌の分子生物学からの思想的脱却はまだまだ難しいのだろう。