統計について考えてみる
3本の映画を評価するとしましょう。
で、Aは100円満点、誰が見ても満足するもので、
Bも十分に及第点で仮に90点くらいの出来だとしましょう。
で残ったCはきわめてマニア向けのもの。
普通に評価したら落第点となるものです。
これらを例えば100人の人間が評価するとした場合に、
大半の評価はA→B→Cの順につくはずです。
しかし、もし最もよかった映画だけに投票したら、
マニアの存在比率いかんにもよりますが、
Aが70票、Bが10票でCが20票なんてことにもなりかねませんよね。
では、それぞれ順位ごとに点数を決めそれらをすべて合計したらどうでしょう。
そうしても、Aの有意は変わらないのはいいのですが、
BCの順位はかなり微妙な位置に来る可能性があります。
何が言いたいかというと、
一般的な(多くの人が同意するであろう)評価ではA→B→→→→→→→Cくらいに、
ABは僅差でAが勝っているのに対してCはそれらからは大きくかけ離れているのだけど、
それが統計の取り方によっては反映されないというか、
下手をすれば逆転してしまう場合すらあるってことです。
さて、原発の賛否を市民にきく公聴会?みたいなものが開かれています。
そこに電力会社の人がいて問題になったりもしています。
これがどうしても不思議に感じるのです。
恣意的に電力会社の人が選ばれてはいけませんが、
あくまでも抽選で選ばれる限りにおいて、
国民の意見として排除されるべきだとは思えません。
何がいいたいのかですが、
アンケート結果にもよるとは思いますが、
新聞などで見ると原発即時停止を上げている人の割合よりも、
ある程度共存しながら少しずる止めていこうって人の方が
明らかに多いように私には見えます。
しかし、この「多数」の意見はおそらくほとんどがサイレントマジョリティーで、
対して、原発即停止の人たちは行動的であり、
それこそ北海道の公聴会に本州から出かけるような方達が多いと思います。
ノイジーマジョリティーというと偏見に満ちた表現になりますが、
でも、声の大きさと国民の意見の乖離はあると思えてなりません。
原発ゼロの方達が電力会社の方を「罵る」言葉を聞くと、
言葉は悪いかも知れませんが「魔女狩り」を思い起こさせますし、
少なくとも「議論」をしようとしていないように思えます。
それに、電力会社に勤める人の意見も「国民の意見」ですよね?
公民権停止になっている訳でもない一国民の意見が遮断される方が
よほど風通しの悪い話に聞こえます。
サイレントマジョリティーに「声を上げろ」といってもたぶん無駄でしょう。
ただ、多くの国民の真意がどこにあるのかは考えるべきだとは思います。
統計の取り方や、アンケートの実施方法、
あるいは発言者の選考方法などで結果は大きく異なることは間違いない。
できるだけ民意に近い判断ができるようにはどうしたらいいのでしょうか?
ただ、この議論を逆手に取って、
政府の希望的意見をサイレントマジョリティーの意見として取り上げるのも
悪い意味での情報操作になるでしょう。
だからこそ、できるだけ目に見えるかたちでの情報判断を
どのようにするのかについては
真摯に考えていくべきだろうと思うのです。