種の絶滅を憂うこと

絶滅危惧種・準絶滅危惧種など種の絶滅について近年耳にする。

生物種が絶滅することを大問題だとした議論もたくさんある。

では、なぜ種の絶滅がそれほどの問題になり得るのだろうか?

 

人類の文明化で自然環境が破壊されてきた結果として、

種々の生物種が絶滅し、あるいは絶滅の危機に瀕しているということが、

なんと表現したらいいのか難しいのだが、

それら生物種に対する哀れみのような自戒というか後悔や懺悔に似た感覚で、

一部かもしれないが、論評されているし、そのような感想を口にする人も実際にいる。

人類のエゴによる大量捕獲や狩猟で絶滅の危機に追いやられた生きものに対しては、

我々人類は道義的責任を負うだろうし、憐憫の情を感じるのも理解できる。

 

しかし、種の絶滅が意味することは実際にはもっと切実である。

現存する生物種はすべからくこの環境に適応してきた。

言い換えればこの環境の中で己のゲノムを磨き上げてきた訳で、

その意味においてわれわれヒトと何ら変わるものではない。

言わば、現存する生物すべては兄弟姉妹である訳だ。

この環境で一緒に切磋琢磨してきたゲノムが存在できなくなってきた環境変化は、

とりもなおさずヒトゲノムにとっても由々しき事態であると言わざるを得ない。

 

過去,鉱山など洞窟に入る者はカナリヤを連れたと聞く。

それは有毒ガスや酸素濃度の変化にヒトよりも敏感であるから、

カナリヤに異常が生じたら即刻退去するという指標だった。

いま、もの凄い勢いで種の絶滅が起こっている。

この、いま絶滅の危機に瀕している生きものたちをカナリヤと考えるべき時に、

すでに遅いかもしれないが、きていると考えるのは正しいだろう。

 

感情的に種の絶滅を悲しむことは人として正しい感覚なのかもしれないが、

それで済ませることで本質が見えなくなる。

新しい環境が地球上に生じれば、

その環境に適応する生きもの(ゲノム)が新たな進化によって生じるだろう。

しかし、その環境に私たちを含む現存のゲノムはおそらく耐えきれない。

それを目の当たりにさせられているのがいまではないのだろうか?

カンブリア爆発で現存する動物門のほとんどすべてが誕生したのは、

致命的な環境変化で、もはやなんでもありの進化がなされた結果だろう。

いまの環境変化が、いまの種の絶滅の勢いが、

新たなカンブリア爆発をもたらすことは避けるべきだろう。

それは我々人類のためでもあるのだが、

同時に、この環境変化が人類によってもたらされたからでもある。

我々がもたらした環境破壊によって他の生物種を絶滅に追いやることは

なんとしても防がなければならない。

それならいっそ人類だけがいなくなれば良いだけの話だ・・・

などと書くと、最初に私が否定した人間の感情論になってしまう。

う〜ん、ちょっと自己矛盾が・・・・・。