コピペ
標題から私が嫌いな書き方である。
カタカナも嫌いだし省略も嫌いということだ。
それをあえてしているのに大した意味はない。
この言葉で通じるから使っているに過ぎない。
こんなことを言っているとカタカナ語を批判できなくなるのだけれどね。
さて、定期的に報道されるのが政治家のコピペ問題だ。
校費を使って視察と呼ばれる旅行に赴き、
その報告書をいろんなサイトの文章をコピペして作り上げる問題である。
専門家のサイトを様々廻って多少とも勉強をしているならまだしも、
ひどいのになると、しかもこれが多いらしいのだが、
ウィキペディアからの短絡的なコピペであるそうだ。
で、本当に不思議に思う。
バレないと思っているの?
こういうのを専門に調べている人たちがたくさんいるんだよね。
それもどうかと思うけど、でも、こんなことで公費を使うことに
何ら罪悪感を持たない政治観が存在するって考えると、
それを重箱の隅をつついてでも探しまくる人が現れるのも分かるように思う。
世の中には理解できる犯罪(犯罪とまでは呼べないものも含めて)はある。
例えばたまたま店員が留守とか防犯カメラが存在しないとか、
盗んでも絶対にバレないと思える状況でものを盗ることは
臆病者の私には絶対にできないが、する気持ちは分からないでもない。
するかしないかは理性や倫理観、あるいは自制心の問題だと思うからだ。
しかし、絶対にバレる嘘をつくとか、必ず見つかる不正をするとかは、
もはや理解できるものではない。
バレないと思ったことが結果的にはバレるのが世の中だ。
だから、結果の話をするつもりはないのだが、
バレないと思える状況と、絶対にバレるだろうと思える状況では質的に異なると思うのだ。
何かを参考にしながら文章を書いていると、
どうしても原典の文章に似通ってくる。
内容というよりも言い回しや文体そのものが似てくるのだ。
だから、参考のために原典を読んでも
文章を書く前にはいったんその文章からはなれるしかない。
その上で原典の内容を思い出しながら文章にする。
その後、間違いがないか原典に再度あたる。
そうしないと元の文章に引きずられるのは間違いないのだ。
だから、いろんなサイトを訪問してそこに書かれた文章から学んでも、
文章を作る時に原典からはなれない限り似たような文章になる。
それをコピペだと批判するのはかわいそうな気はする。
ただし、これは読めば分かる。
コピペで、語尾などの言い回しを変えただけの文章は
いかなる言い訳も通用しないくらいにもとの文章そのままである。
本題の政治家の報告書なんかに関しては、
それこそ、専門家(あるいは専攻している学生)などを雇って
自腹で報告書を作らせればいいのにと思う。
まあ、自腹で他人を雇う人間なら公費で旅行には行かないか。
う〜ん、やはり私には分からない。