個人の自由

大阪市の入れ墨問題でいろいろと意見があるようだ。

私がたまに訪れるブログにも強烈に批判が書かれている。

それぞれに考えがあるのは分かるので

様々な意見が出てくることは問題ではないし、

自分の意見と異なるからという理由で

他の意見を排除する気にもならない。

 

ただ、「表現の自由」「個人の自由」みたいな「近代的な考え」には

個人的にはかなりの抵抗があるのは間違いない。

すべてを否定するつもりはない。

しかし、自由は無制限に成立するものではないと思う。

その人がおかれた状況によりかなりの制約を受けるのが正しいのではなかろうか。

その意味で私は橋下市長の「公務員だからこそ」という議論に全面的に賛成である。

彼は何も入れ墨をいれることそのものを否定をしてはいない。

公務員がいれることに反対だと言うに過ぎない。

これを表現の自由で片付けるなら

もはやなんでもありにはならないだろうか?

 

私は、例えば「幼女や少女を性の対象としてみる」男性には

幼稚園や小学校の教員にはなってもらいたくないし、

それは「自由」などという「権利」で守られるべきことではないと思っている。

自宅で「幼女趣味のアダルトビデオ」を見ている男性は

他の職業に就くのは仕方ないだろうが

小学校や幼稚園などの職員にはなってもらいたくないしならせてはいけないと思う。

極論すれば、ビデオなどの購入歴やレンタルの履歴を調査して性癖を明らかにしないと

その職業には就けないようにするくらいの制約はあって構わないし、

この考え方は公務員の入れ墨に関する橋下市長の考え方に

基本的には同調するものだろうと思う。

もちろんこの手の規制が行き過ぎることは問題であることは間違いない。

しかし、ある種の職業には行き過ぎていても徹底的に調査すべきことはあると思う。

まあ、この辺りが他の人々との考え方の違いなのだろうとは思う。

 

私は「性悪説」だと暗に批判的に言われる時がある。

ただ規制の前提には危機管理意識があるべきであり、

危機管理とは最悪の状況を想定するところから始まるという意味では

性善説に立ってはならないとまじめに思っている。

ただ「性善説」をどんな場合にも支持する人とは

このレベルで合わないのだろうということは理解できる。

繰り返し言うが、俗にいうところの「幼女趣味」の人間が

幼女と関わる職業に就くことは、

それが「個人の趣味」の範囲内であったとしても絶対的に反対である。

 

まあ、就職に制限を課せないなら、

違反した場合の罰則は徹底的に重くしてほしい。

その職業にこそ求められる倫理に反する行為は、

それ以外の人が同じ犯罪を犯すことに比較しても

重くなくてはならないと考えるのは間違えてはいないと私は思う。

警察官に重い職業倫理が求められるように、

教員にも公務員にも、それ以外の職種の方々と比較して

十分に重い倫理感覚が求められるのは私にはあまりに当然だと思えてならない。

 

「自由」は尊重されるべきだと思う。

他人が踏み込んではならない部分はたしかにある。

しかし、それはおかれた状況によって判断されるべきものだとおもう。

何でもありの自由がこの国をこんなかたちにしてしまったのかもしれない。

それもこれも戦後教育の賜物だと私は思っている。

 

私は至極当然のことを普通に主張しているつもりであるのだが、

たぶんこの考え方が過激だと映る人も多くいらっしゃるだろうし、

少なくとも橋下市長に反対される方々は、

私のこの考え方には一切相容れないのだろうなあ。