言語と哲学

「哲学もつまるところ言語に依存する」といったことが

ある言語学の書物に書かれていた。

私はこの考え方に原則的には反対である。

ただ、言語学者は結局のところ言語をこのように考えているのかと理解できるので

これはこれで面白いとは思うし、

この考え方が間違いであると言いきれるほど私自身に明確な根拠はない。

 

大きな感覚として言語体系と哲学大系は同質のものだと私は考えている。

その理由は色々なところに書いたから割愛するが、

たとえば私が論理的な何かを思考している時に言語は存在していない。

言語は、それを説明する時になって初めて生じるものであり、

ただ思索に熱中している時に私にとって言語は必要ではないのだ。

これは例えば数学の問題を考えている時に言語が介在しないのと同じだと思うし、

発生学の研究内容を思考している時にも頭の中には言語はない。

例えば、組織の移動を頭に浮かべている時には

胚のかたちや組織の場所の感覚が、

ときに静止画ときに動画でとして頭にあるだけであり、

それを他人に説明する時や、記録として残そうとする時までは

言語が介在することは私にはあり得ないのだ。

だから哲学が難しいのは、哲学自体が難しいのではなく、

哲学により形づくられた体系を言語体系に翻訳して説明し、

その説明を脳の中でふたたび哲学大系に戻して理解するという過程が

非常に困難であるということに過ぎないと思っている。

ある種の思想も、理解してしまえば明確に分かるのだが、

理解できるまではどんな書物を読んでもどんな話を聞いても

いまひとつ理解できないのも、

その体系を脳に形づくる過程が困難であるからに過ぎないと思う。

また、明確に理解できた思想体系を説明することが難しいのも

同じ理由によると私は考えている。

だから、哲学や思想より上位に言語が存在するというのは

私にとって受け入れ難い感覚なのだ。

 

ただ、生まれてから言語を習得せずに育った人間の脳に論理が存在するかと問われれば、

それははなはだ疑問であるとも思えるので、

言語が論理体系を確立する大元になるという気持ちも否定しきれない。

ただ、この場合の言語が俗にいう言語と同質なのかについては疑問である。

ここで「俗にいう言語」としたものとは、

思想・哲学と同質であると私が捉えている言語であり、

書き言葉や話し言葉といった情報伝達のための言語と言えるかもしれない。

それに対して、言語の習得というのは少々異なるように思う。

では何か?それが分かれば苦労はしないのだが、

まあヒトという生物種がもつ生得的な(ゲノムに書かれている)なにかではなかろうか?

こう考えると途端にチョムスキーが出てくるのだ。

何となく「普遍文法」の意味に近いものを想定したくなる。

ただ、それをそのまま言語と対比するところに抵抗があるということだ。

私が想像している「普遍文法に近いように思えるもの」は、

PCでいうところのフォーマッティングのような感覚であり、

それを生まれてからの一定期間に認識という方法論によって

脳の中に作り上げられるような感覚ではなかろうか。

だから、言語の習得が必須と言うよりも、

物事を認識・識別する方法論、それらを関係づけて捉える方法論を、

コミュニケーションという作業によって脳に構築することが重要であり、

そこに言語がたまたま介在するに過ぎないという感覚なのだ。

難しいのは、この「感覚」をこれ以上論理的に説明できないところである。

ただ、生得的である以上はそれはゲノムに書かれていなければならないし、

気持ち的にはゲノムの論理との相同性を考えたいのである。