切り取ること
チョムスキーの考える普遍言語とは違うのだろうが、
言語の獲得の際にまず必要なことは、
存在するすべての事象から何かを切り取ることだろう。
冷静に考えると切り取ることはなかなか不思議な気がするのだ。
どんなものを考えてもいいのだが、
色の違いなどは基本的には波長の違いであって、
波長の違いは基本的に連続しているはずであるから、
絶対的な意味合いでの「赤色」「青色」ってのは存在できないだろう。
もちろん「絶対音感」に近い感覚で色を識別できる人はあるだろうが、
それも物理的な意味での特定波長の色だけを識別しているとは思えない。
識別することとは、切り出すことであるのは間違いないのだが、
切り出すという感覚はたぶん違う。
切り出すというよりは、それ以外との差異を作るという感覚なのだろう。
だから、差異がなければ切り出せない。
だからそれらは「同一」となる。
この考え方がブリダンの驢馬の逸話なのだろう。
次に例えばみかんのことを考えてみよう。
まったく同一のみかんなんてモノはこの世に存在しないから、
何らかの方法でみかんというものをカテゴリー化しなければならない。
そうでなければ脳へ送る情報になり得ないからである。
これも言い換えれば、みかんというカテゴリーを一つのものとし、
それとそれ以外、例えばリンゴというカテゴリーとの差異を認識するといえる。
結局は、連続する事象から何かを切り出さなければそれを認識できないし、
個体間の差異を無視したかたちでひとくくりのカテゴリーを作らなければ
周囲からは切り出すことができずしたがって情報とはなり得ないのだろう。