「なぜ」をなぜ問えないのか?
科学は「なぜ」を対象にできないでしょう。
だからもっぱら「いかにして」を研究しているわけです。
では、なぜ「なぜ」を研究できないのでしょうか?
それは、事実がそこにあるからであり、
そこにあるものを説明する時には
「だってそうなんだもん」って以外にしようがない。
「なぜこの生きものが存在しているのか?」との問いには
「だって、存在しているから存在しているのだ」としか答えようがありません。
何となく「なぜ」に対する回答のような説明も見受けられますが、
それはやはり詭弁だと言わざるを得ない。
擬態は生存するためのもの(原因)ではなく、
たまたま擬態したから生存できた(結果)というにすぎません。
さて、ことば論でも書きましたが
文法が言葉の先にあるなんてことはないし、
文法を覚えて言葉を話せるというのは間違いというか
そもそもの理屈が逆だということです。
だから、そこに存在する言葉に対して「なぜ」は成立しないし、
それは現象を対象にする学問の必然であろうとも思えます。
「彼は行った」を「彼を行った」にできない理由は説明できません。
「行かない」が「行くない」とならない理由を説明できません。
「だってそうなんだもん」としか言いようがない。
それは、すでにそこに存在するものを研究対象としているから、
「なぜ」ではなく「いかようにして」とならざるを得ないのでしょう。
だからというわけでもありませんが、
現象を解析する学問は基本的には記載する以外に手だてはないように思えます。
記載するという方法論を越えたなにかが現れたら、
科学は大きく変えられるのかも知れませんが
それがはたしてなんなのか、まったく想像だにつきません。
例えばソシュールの構造論は、それまでの言語学を打ち破りました。
文法や形式の類似性を解析するのをやめ、
言語を純粋な体系として扱ったのだと思いますが、
それでも、そこに存在する言語が対象であることには変わりありません。
見方は大きく変わったでしょうが、
でも見方が変わっただけのような気もします。
でも、生物学にはまだソシュールが現れてないような気もするので、
見方の変換がこれから行なわれるのでしょうね。