記載型の学問

職業的に日本語の文法で英単語を用いる傾向が強い私たちは

descriptiveな研究と呼びますが、

まあ、生き物を観察し事実を記載するという形式の研究をさすと捉えて下さい。

何もこの方法論が絶対的に正しいと主張するつもりはありません。

ただ、今までの経験に個人の嗜好も加味された結果として

私はこの方法論が研究には極めて重要であると信じています。

 

さて、descriptiveの対比語としてprescriptiveがあります。

この本来の意味は「前もって決めてかかる」らしいのですが、

descriptiveが予断なく現象を忠実に記載するという意味から見ても

prescriptiveの意味が極めて象徴的に感じます。

 

ただし、ここで極端に対比させているのは実は物事の一面であるわけで、

たとえばある仮説を元に実験をするという場合はなんとなくprescriptiveな気もしますが、

現象なしに仮説を産み出すことはできませんので、

最初には現象の記載があったはずですし、

現象の記載をしたあとには必ず何らかの推定をするはずですから、

記載型の学問が仮説を生まないということもないでしょう。

 

ただ、最近のprescriptiveに見える学問は

研究者自らが現象を見ていないように感じられるものが多い。

だから、何となく机上の空論に見えるものが多いと思えるし、

そこから、下手をすればデータの捏造なんてことにもつながると思います。

以前にも書きましたが、

実は間違えているその時の常識を元に「作り上げた」データを目にします。

本当にその実験をしてその結果が出るはずはないにも関わらず、

常識が頭を支配しているのでしょうか、

教科書どおりの、しかし絶対に出るはずのない結果が不思議に出てしまうのです。

これはデータそのものを作り上げたのか、

それともデータの解釈を間違えたのか分かりませんが、

解釈云々の問題以前のような気はします。

 

prescriptiveは先入観であり予断であると言い切っても構わないかも知れません。

それに対してdescriptiveは見えたそのままを記載することです。

私たちがイモリとツメガエルを用いて行なっていることは、

まさに両者を正確に記載し、それらを比較することですが、

この比較によって両者の違いが明確となるとともに、

奥底に横たわる意外な類似性に気が付くのです。

これは、おそらく今の教科書どおりの常識からは見えないことだと思っています。

 

記載型の学問は古いと思われがちです。

それは、分子や遺伝子が格好よくて古典生物学が格好悪いという

よくわからない風潮にもつながるように思います。

でも、現象を知らずして分子を扱えますか?

その分子が生命現象のどこでいつ働くかを誤解したまま、

その分子の機能を解析してはたして生きものを理解したと言えますか?

これが、ひねくれ者の私が修士2年の時から思い続けていることです。

 

発生学者の團勝磨は「ウニが語ってくれます」と言いました。

その気持ちがすごくよくわかります。

 

ちなみに、prescriptは規定・指図・命令・法令・法規、

postscriptは追伸・追記といった意味があります。

蛇足は英語では・・・そんな中国の故事に由来するような英語はないでしょうね。

強いて言えば、「言い過ぎ」に相当するsuperfluousあたりでしょうか?

いやあ、ホンマに蛇足でした。