淘汰圧?
で、淘汰の話であるが今日は変な話になる
(いつも変だろ!というクレームは受け付けません)。
日本文化には村社会のような全体的な思考が存在している。
だから、たとえばその関係性を乱す行ないをする人間を排他してきた。
まあ「白い目で見られる」ってヤツであろう。
だから、そうならないように「後ろ指を指されないように」子供を躾けてきた。
この「後ろ指」を指すのはもちろん神様ではなく周囲の人々である。
だから美しい言葉も存在する。
例えば「おかげさま」という言葉は、
とにかく誰かのおかげで自分が成り立っていることを意識することばだろう。
変な振る舞いをすると途端に村中の噂になる。
「あの人に近づいたらアカン」と親からいわれる。
そうしてそうならないようにを子供自身も思うし、
それがある種の行動の規範をかたちづくるともいえよう。
この、村(周囲との関係性)が人間の思想や行動の淘汰圧として存在したのではないかと、
相似か相同かは分からないが、ゲノムにかかる淘汰圧と論理的に似ているように感じるのだ。
これまで書いてきたように西洋の思考は日本とは異なると感じる。
西洋は、やはり個人主義的価値観が強く、
それはおそらく神との契約によって相対化されているのだろうと思う。
だから、行動の規範として神があり宗教がある。
まあ、だからこそ個人の権利が守られるのだろうと思う。
で、この個人の権利と言う思想が、
村社会の日本に最先端として流れ込んできた。
この瞬間に日本人は規範・規律を失ってしまったと思う。
淘汰圧はどこにもかかっていない。
変異し放題のカンブリア爆発状態だと感じる。
まあ、カンブリア爆発の状態は淘汰圧がかかりまくっていて
現存するゲノムが耐えられずに莫大な変異が結果として許容されたのだろうと思うので、
むしろ真逆の状態かもしれないが・・・。
村社会の淘汰圧によって保たれていた日本社会が個人情報の保護によって消失したわけで、
以前もいたとは思うが、最近つとに耳にするモンスター○○なんて輩も、
周囲との関係性を無視した権利と義務の主張をし続けている結果だろう。
結局、日本社会が個人の権利をあらゆるレベルで許容できる環境ではないところに
思想だけが半強制的に導入されてしまった感は拭えない。
そして、それは間違いなく戦後の思想教育の(悪い意味での)賜物だろう。
話は少し外れるが(私の中では同根なのだが)周五郎である。
周五郎の「日本婦道記」をお読みいただきたい。
まあお読みいただければお分かりになるだろうと思うが、
個人的には踏み絵のような本だと思う。
詳細は、書くと問題がありそうなので書かないでおこう。