では、言葉の進化は?
これを考えるとよくわからなくなります。
一つの問題としては、言葉の進化の時間が生物進化と比べて非常に短い。
だから、まだカンブリア爆発が起こっていないのかも知れません。
もう一つは、たとえば明らかに縁続きだろうと思える言語がある一方で、
共通祖先があるのか不明な言語もあると思います(すみません、勉強不足で)。
要は、ゲノムのように起源が同じと議論して良いのかどうかという問題です。
これらの何が問題かと言えば、
たとえば、見るからに近縁種の分岐の問題と門レベルの分岐の問題を
言語の進化としてどう扱えるのかということになります。
まあ、一つの単語の違いによって新たな言語へと分岐するとは
おそらくは誰も考えないでしょう。
単語の意味はその言語体系によって決まるわけで、
単語が体系を決めるわけではないからです。
それがたとえ動詞みたいな「動的」な単語であっても、
その動詞の意味は、やはり言語体系によって決められますから、
その動詞が新たに入ってきたからと言って
ある言語が別の言語になるわけではないということです。
ただ、あまりに近縁の言語だと、
単語を異なる用法で使い、異なる語順で使うことにより、
地理的隔離など(あるいは国による言語の指定とか)も相まって
徐々に変異が蓄積されて見かけ上は新たな言語となる可能性は高いでしょう。
でも、これは同じ「ラテン系」とかの言語間の問題に閉じるような気がします。
英語の単語や語順が入れ替わったからと言って
どれだけの年数を要しようとも日本語になるとは到底思えないからです。
で、上にあげた問題ですが、
ゲノムのように、相同遺伝子とか転写やシグナル伝達の機構など、
明らかに縁続きであると思われるものが日本語と英語の間に見えて来ない。
だから、これをカンブリア爆発のような議論で行なって構わないのか分からないのです。
生きものでは、門レベルで異なっても持っている遺伝子は、
あるいは遺伝暗号は、基本的に共通である。
たまに、トンデモ本と称して「日本語と英語が同じである」との主張が出回ります。
私はこれを否定する能力などありませんが、
多くの言語学者が一笑に付すくらいですから、
まあ明確に否定されていると考えて構わないのでしょう。
で、そういう書物に書かれているのは、
「英語のname(ローマ字読みでナメ)は、日本語の名前(なめえ)に似ている」
みたいなことの羅列であって素人目にもそのバカらしさは伝わります。
横道にそれましたが、
ソシュールのいう構造論に関しては原則賛成です。
しかし、それが元としているのが比較言語学であるということ、
そして、言語の研究を言語で行なっているところに、
思考の限界的なものをかいま見るような気がするのです。
それは、ソシュールに端を発する思想体系にも言えることで、
言語学は言うに及ばず、思想哲学にしても、
結局、言語の枠組みで提示された体系で議論されているに過ぎないということ。
ただ、例えば構造論は脳の中に体系として確立された時に、
言語からは乖離されているとは思いますから、
それ自体は、脳の中で論理として進化すれば良いことなのでしょう。
まあ、この論理のぶつかり合いによる大きな摩擦によって
ソシュールは沈黙したということなのでしょうか?