聴覚言語と視覚言語、その2
またしても視覚言語と聴覚言語についてである。
一般に視覚と聴覚で分けられている言語を違った見方で見たらどうなるのだろう?
ってことを先日に書いた「その1」ではいいたかったのだが、
それは、とりもなおさず視覚・聴覚という分け方では私には理解できないので、
読む時・書く時・話す時・聞く時に脳がどのような処理をしているかという視点で
言語を考え直してみたらどうだろうという短絡的なものであった。
ただ、実際に脳がどのように働いているかなどは私には分からない。
だから、その時々の自分自身の気持ちを考えてみたということであった。
最新の脳科学の機械類を使えばこんな妄想など
木っ端みじんに吹き飛んでしまうかもしれないが、
このコラムは科学的な正確さを求めてるものでもないし、
まあエエかってことでご容赦を。
さて、例えば言葉を「聞く」時に、一言一句を正確に捉え分析するのではなく、
言葉を一つの塊として認識すると書いた。
これは、もう少し違うレベルの話も絡んでいる様に思う。
たとえば、「明日,飲みに行く?」と聞かれた時の答えとしては、
いろんな理屈は付属しても、基本の返答はYesかNoのどちらかになるはずだし、
聞いた人もそれを期待して話をしているはずだ。
そこに全く関係のない言葉が返ってきたとしたら、
その日本語が正確であり、ちゃんと意味を持っていても、
いわれた人は瞬時に意味を把握できないだろう。
まあ、生まれ育った過程で習得するお約束みたいなものが明確に存在するのだ。
自分の話す言語にも、一言一句を越えた「かたち」としての意味があり、
その言葉ですら、それ以前の言葉やそれに続く言葉との「形」が前提となっている。
こう思ったのはかなり若かった頃、初めて一人旅をした時の話なのだが、
旅館やホテルでどんなやり取りがなされるのかなんてまったく知らないから、
普通だったら何も考える必要などない反射的にできる会話も、
いちいち最大限の緊張感を持ち、相手のいうことに耳を傾けなければならなかった。
しかし、それでもこの世に存在するあらゆる表現を想定するわけにもいかないので、
ある程度は範囲を絞り込んで相手のいうことを想像していた。
で、その若輩者の想像を超えた言葉が飛び込んでくると思考停止になり、
何度も聞き返さねばならなかったのだ。
もちろん、言語の習得にはこの過程を必ず踏むものだから、
それはそれで今となってはいい思い出なのだが・・・。
で、お約束の話である。
よく関西人は笑いにうるさい(このうるさいとは煩わしいの意味が大きいと思う)と言われる。
しかも、関西以外の人には「何が面白いのかまったく分からない」ことで喜ぶ。
これは、もう子供の頃から「お約束」を覚えさせられたとしか言いようがない。
こう言って、こう返ってきたら、それは面白いことなのだと洗脳されて育ってきた。
ただそれだけのことで、その「かたち」が脳の中に存在しないとまったく面白くない。
そのかたちになった時を面白いと感じる様にプログラムされてきたから「面白い」のだ。
だから、なぜ面白いのかなんて説明できない。
冷静に考えて吉本のギャグなんて面白くない。
でも、それが面白いものだと思想統制を受けてきた。
だから、反射的に面白いとなる。
で、これは大まかには聴覚言語に多い現象だと思う。
この意味で、聴覚言語は「かたち論的」すなわち「視覚的」だと書いたのだ。
これに対して、視覚言語はある程度は次に続く文章の予測はするし、
たとえば普通は次に肯定文が来るはずだと予測しながら読んでいて、
否定的な文章が来たら途端に理解不能となりかなり戻って読み返すことをしている。
ただ、これは視覚言語の「お約束」というよりは、
論理における「お約束」的な側面が強い様に思える。
この論理で来たら、次にはこの論理が来るべきであるとする「お約束」があり、
それを想定して読み進めるということだろう。
で、実際に読むという作業は、
「かたち論的」というよりは「聴覚的」である様に思えると先のブログで書いたのである。
実際のところはどちらが正しいのか分からないが、
少なくとも私の感情としてはそう考えた方がすっきりする様に思う。
まあ、時間とともに流れて行く言葉を一言一句追いかけて理解することは
現実的にはかなり無理がある様に思う。
話す時にも、一言ずつ考えながら文章を作ることは多くの場合に無駄ばかりであろう。
だから伝えたいその感情を指し示す言葉の塊を反射的に口から出す。
そして、その「言葉の塊」とは生活習慣の中で習得する関係性であり、
その「塊」自体も、それを構成する単語同士の関係性だろうし、
その「塊」を使う時点でのその前段に出てきた「塊」との関係性が成立しているのだろう。