本格ミステリとは?、その2
先日、本格ミステリについて
「謎」があり「解決」があることだろうと思う、と書いた。
これはこれで大して異論はないと思うのだが、
実は、この「定義」に当てはまらないものでも
「本格」と思えて仕方ないものがたくさんある。
むしろ私はそちらの方が好きなのではないのか?と自問自答してしまうほどだ。
それは何かと言えば、「(最初に)謎がない」ものである。
何の不思議もなく、一切の疑問も持たずに物語として読み進めて行くと、
最後になってその模様が180度かわってしまうようなものだ。
結果としてなぞは最初から存在していたのだが、
それに気付かされるのは物語の終盤、ものによっては最後の一行ってことになる。
いわゆるどんでん返しモノの一つだ。
そして、この手の物語には一般的にはミステリに含められない「普通の小説」がたくさんある。
こうなると、私はミステリが好きなのかどうかすら分からなくなってしまう。
なぜなら、どうしても受け入れられないミステリ小説がそこそこあるからだ。
「かたち論」的に考えれば、
途中(終盤)まで、ある「かたち(関係性)」として理解してきた物語が、
一つの補助線を引かれるだけで
ある瞬間に違う「かたち(関係性)」へと変貌を遂げるということなのだろう。
言わば「騙し絵」のようなもので、
「そう」見えてしまえばその後は「そう」としか見えないのだが、
普通には誰も「そう」見ることはないということだ。
この意味において周五郎の「青竹」は本格ミステリだと書いた。
そして、私はおそらくこういう意味での巧んだ文章に魅せられるのであろう。
で、この手の文章を書くには構成力以前に筆力が絶対的に必要である。
本物でなければ絶対に書くことはできないだろう。
だからこそ、偶然本物に出会えた時の喜びは格別なのである。
もちろん「パズル」としての本格もいいのだが、
中途半端なトリックを弄するだけのパズルは、私には面白いとは思えない。