聴覚言語と視覚言語、その1
これまで、視覚情報には時間を必要とせず、聴覚情報には時間を必要とする、
といった意味合いのことを書いてきた。
その延長で、視覚言語と聴覚言語についても考えてきた。
ただ、視覚言語には不必要で聴覚言語には必要であるとする議論の段階で
時間に関する限りにおいて思考停止していた様に思う。
で、本当に聴覚言語に時間は必要なのか?について漠然と考えてみると
逆に、むしろ視覚言語にこそ時間が必要なのでは?と思ったりもする。
聴覚言語とは、まあ話し言葉だろう。
話し言葉を理解する時にはもちろん時間を止めることはできないが、
それは生物が生きていることとほぼ同義に考えても良いのかもしれない。
で、我々が言葉を話す時に、
話す順番に何かを思考して声を発しているかと考えたら、
それは違うような気がするのだ。
我々はおそらく、言葉を一つのまとまりとして用いている。
何かを話す時に、ひとこと一言を選別して話すことはなく、
ある事象や考えなどを表現する文章を丸ごと選択して話している。
だから、いま話している言葉について「考えながら」ということはほとんどない。
逆に、考えながら話をしたら、情報としては非常に話しづらいし聞きづらい。
聞く方も同じ様に思う。
何かを聞くときに、その内容を一言一句吟味しながら聞くことは普通にはしない。
ある言葉のまとまりを捉えて、それが指し示す内容を大枠で捉えるはずである。
この時に、話す・聞くという動作にかかる時間を無視すれば
基本的には時間を考慮することなく、
何かを表現するゲシュタルトの取捨選択という話に落ち着かないかと思うのだ。
もっと言えば、たまたま日本語を用いているだけであって、
話す事柄を指し示すゲシュタルトが英語だって構わないのだろうと思う。
だから、そこには言語としての日本語の要件はそれほど厳密に要求されない。
では視覚言語はどうだろう。
私はこのような文章を書く時に、やはりかなり言葉を選び考えながら書いている。
だから、文章を紡ぐ作業には時間を無視できない。
読む場合もそうである。
そこに書かれている文章を、その語順のままに読んで行き、
また日本語として理解しようとしている様に思えてならない。
だから、英語を読み書きする時と日本語を読み書きする時では
思考形態が明確に異なる様に思える。
視覚言語を読み書きする時には確実に時間の概念を意識していると感じるのだ。
以前に、速読法についての私見を書いた。
速読のトレーニングは、まず音読をやめ、
とにかく文字列をできるだけ早く目で追うことから始まる。
その次には、文字列を追うのではなく、
数行のまとまりを瞬時に認識することを練習するそうだ。
これは、視覚言語を聴覚言語的に脳が理解することに他ならないのではないか?
今までは、この正反対の考え方をしていた。
音読すること、すなわち聴覚言語として視覚言語を処理するから時間がかかるだけで、
そのまま視覚情報としてのゲシュタルトを脳に叩き込めば速読になると思っていた。
まあこれはこれで間違ってはいないかもしれないが、
ただ、聴覚言語として捉えるから時間がかかるという理屈は何となく違う様に思えてきた。
聴覚言語に時間がかかるのは、音を発することにかかる必然的な時間のみであって、
その理解には時間は必要ではないように思えてならないということだ。
もちろん、こんな簡単に分けることはできないだろう。
聴覚言語である状況を指し示すゲシュタルトを意識して捉えている時には、
それまでの経験を踏まえ、前後の文脈からそのゲシュタルトを推定している。
だから、想定外の文章が続けば一気にゲシュタルト崩壊を起こす。
話しの途中に「えっ、ちょっと待って。もう一度最初から話して欲しい」ってことになる。
同様の現象は文章を読む時にも起こる。
それまでの文脈から次に表れる文章を想定することは普通にやっている。
その意味では視覚言語の理解においてもかたち論的な脳の使われ方をしているだろう。
もう一つ違う方向から考えてみよう。
例えば小さな子供や外国人など、片言の日本語しか話せない人との会話である。
このような人たちは日本語のゲシュタルトを持っていない。
定石とも言える表現を持っていないから、
どうしても話しながら日本語作文をしてしまうし、
その言葉を聞く方も、日本語として順を追って理解するしかない。
要するに、視覚言語と聴覚言語という分け方に問題があるということなのかもしれない。
その言語を理解する時に、時間軸を必要とする思考をするか、
それとも必要としない思考をするか、
言い換えれば、脳のどの部分でその言語の情報処理をするかによるとしか言えないのかもしれない。
むずかしいなあ。