翻訳小説

以前に「五足の上ぐつ」について書いた。

小学生が書いた作文が、その言葉は無茶苦茶に壊され、

その品格や格調といったものがまったく失われた形で

文部省検定の教科書に載ったという話だ。

 

そこで思うことがある。

これは文章を書き始めてからからずっと疑問に思ってきたことでもある。

この「改悪」作業はもちろん大人の手によってなされたものだろうから、

小賢しい言葉の書き換えはあるが基本的に内容は変わっていない。

しかし、文章としては国宝の器と百円ショップの湯のみくらいに

もうものの見事に変えられている。

同じ日本語でもそうなのだ。

翻訳物ってどうなんだろう?って疑問である。

作者の創作による独創的なストーリー展開はあろう。

だから翻訳物を否定するつもりなど全くないのだが、

でも、文章によってこれだけ変わるのだから、

特に「純文学」のような小説に関してそれを翻訳することが

どれだけの意味があるのだろうかと疑問に感じるのだ。

端的なのは詩や俳句みたいなもの。

俳句を英語に訳してどうなるのだろう?って思ってしまう。

もちろん、英語の詩の一形態として新しい分野を創造できるだろう。

ただ、それは日本の俳句ではない。

「古池や」は、日本の風景を日本語で感じて初めて「古池や」であろう。

「夜の底が白くなった」って、日本語でもこれしかないって言葉だろう。

それを英語に直してどうなるのか?

英語独特の新しい表現にはなるだろうが、

それと翻訳とは違うと思う。

 

私だけかもしれないが、

英語の本を読んでいる時の情景と、

同じ作品の翻訳物を読んでいる時の情景が異なるのだ。

微妙に違うのではない。

雰囲気が違うばかりか、しばらくは同じ作品だと気が付かないくらいに、

何もかもが異なっている。

そこが面白いところでもあるのだが、

本来の文章が持つ味わいを翻訳でどこまで伝えられるのかを考えた時に、

絶望的にな気持ちにすらなってしまう。

ただし、「翻訳小説」と言う新しい分野は成立しうるので

これは翻訳を完全否定するということではない。

 

それにしても、匂いってありますよね?

アメリカの小説とフランスの小説、南米の小説では、

流れる空気が全く違いますからね。

これがお国柄なのか、言語のなせる業なのか、

突っ込んで考えてみたら楽しいかも知れませんね。