本棚
自分の本棚を見られるのは恥ずかしいとよく言われています。
親しい友人も同じことを言います。
しかし、この感覚はあまり私には理解できません。
特に自慢できる本を読んでいるとは思えませんが、
恥ずかしいと思えるほど読書に思い入れがあるわけではないからです。
さて、先日も書きましたが、山本周五郎を読んでいます。
何ていうか、読後感の清々しさに心が洗われるような気になります。
この人は心根のやさしい人なんだろうなと自然に感じてしまいます。
心根の卑しい人にはこんな文章はかけないと思います。
何を申し上げたいのかと言えば、
本棚を見られてもなんともありませんが、
自分の文章を読まれることが、人間性の奥底までも見られているように感じられて、
なんだかとても恥ずかしいのです。
このような文章を書いていること自体が自己矛盾なんですが、
もう行きがかり上仕方がないとあきらめています。
書いている内容、思想信条や浅学が明らかになることを恥じているわけではありません。
山本周五郎の例でも申しました通り、
文章から透けて見える私の薄っぺらさを恥も外聞もなく公に晒しているという事実が、
例えようもなく恥ずかしく思うのです。
なら書かなきゃ良いと本当に思います。
でも、少数ですが毎日ご覧くださっている方がいらっしゃいますので
ここでやめるわけにも行かないと思い恥を忍んで書き続けています。
このコラムも、当初は「ゲノム論」をまとめるために書き始めました。
構造論とゲノムの融合がどのような帰着を見るのか
考えていてもらちがあかないのでひとまずやってみようということでした。
それが、ある程度書いたところで煮詰まってしまい、
なんだか最近では本当に日記のような雑文でお茶を濁し続けています。
だからこそ、なんだか自分の卑しい人間性が透けて見えるようで恥ずかしいのです。
とりとめのない内容になってしまいました。
山本周五郎を読んで自分を振り返ってみたことでした。