意識について

意識の定義については議論を要するだろうと思うが、

まあ、この文脈の中でご判断いただきたい。

 

以前にかたちとスポーツについて書いた。

簡単にいえば、身体の動き自体も脳からの情報の産物であり、

脳の中にでき上がったかたちによって我々は「思ったように」動くことができるということだ。

癖字というのも、その癖が脳の中に確立していることだし、

動作の癖や、あるいは言葉の癖なども脳に描かれているということだ。

そして、脳の中にかたちとして確立している以上は、

それは無意識下で動くものである。

意識は、どの瞬間にどのかたちを動かすかについての制御はできるが、

かたちの中に影響することはできないと考える。

で、意識がかたちに影響するようになると、

かたちはゲシュタルト崩壊をする。

 

私は決して野球など上手くはない。

真っ正面のゆるいゴロが飛んで来ると、

「来る、来る、来る、来る、来た、行っちゃった」となって、

まあトンネルすることがよくあった。

真上に上がった凡フライも同じようにエラーした。

逆に身体をかなり機敏に動かしても捕れそうにない打球を捕ることは

意外にできたように記憶している。

その時に感じたことだが、結局ゴロを無意識に捕りにいくと

なにも問題なく補給できるのだが、

足を動かす必要もなく、さらには頭で考える(意識が入り込む)余裕ができると

体を動かすことができなくなるような気がしたのだ。

で、上手になることとは、意識をいかに排除できるかということに尽きると思った。

これは、例えば発表会などでアガルことにもつながっていると思う。

普段できることができないということは、

意識が無意識に入り込んで邪魔をしているように思っているのだ。

 

狸寝入りをしていると起きるタイミングを逸することがある。

以前に大学の建物内にある畳の部屋で寝ていた。

すると別の学生がはいってきて何か勉強を始めたようだが、

その時はまだ目覚めていなかった。

そこにもう一人の学生が来て勉強をしている学生と話し始めた。

何となく話し声が気になって目が覚めた。

それとほぼ同じ時に、後から来た学生が言った。

「ちからさん、ホンマに寝てるんかな?狸寝入りしてるんちゃうか?」

狸寝入りを故意の寝たふりだと取れば、

事実としては、狸寝入りをしているわけではなかったが、

眠っているわけではなかったので、

これがバレるとずっと寝たふりをしていたことになってしまう。

そんなところで寝たふりをしてもなにも得はないのだが、

でも、後輩が勉強している横で寝たふりをしている、

あるいは後輩二人が話しているのを盗み聞きしていると思われたら

あまりにもイタイ奴になってしまう。

で、その時に感じたのは「普通はどうやって目覚めるのだろうか?」って疑問だ。

眠りから覚める時に人はどうやって起きるのだろうか?

どうすれば自然なのだろう?

それがわからないから、ずっと狸寝入りを継続しなければならない。

無意識に目覚める時には何の違和感もないのだが、

意識がありながら目覚めたふりをするのはやり方が分からない。

結局、かなりの苦痛を感じながらも二人が出て行くまで

二人に背を向けた体勢で寝返りもうてないままじっとしていた。

 

この文章は意識について書き始めたのだが、

書いているうちに意識そのものの周辺をぐるぐる回っていることに気付いた。

もうここから意識の話に戻ることも用意ではなく、

このままでは収拾はつかないのでとりあえずこのまま終わろう。

ただ、なんとなく何かの本質に「意識の開放」があると思う。

悟るということには意識を捨て去ることが無関係ではあるまい。

「考える」という所作と「無意識」という状態の狭間に人は存在するのかもしれないな。