部品と秩序
岡本太郎を読んでいるので何となくそれについて書こうと思う。
今日の芸術の1章で岡本は「現代人は部品になった」と書いている。
言わんとするところは分かるような気もする。
ただ、ここで私特有の思考が顔を出す。
日本と西洋の違いである。
私の考えでは、西洋の思想とは大まかに要素還元主義的である。
したがって、西洋の組織論では人を部品として扱うのは当然だろうと感じる。
では日本の、いわゆる村社会ではどうであったのか?
もはやそれは分からないのだが、
私が育ってきた幼児期からの環境を考えると
それほど組織立った動きがあったとは思えないし、
組織立った考え方というものは大人だなあと感じる、
勉強をした人たちが身につけるもののような気もしていた。
そして、やはり日本人には西洋的な組織がむかないと感じるのは、
組織論に立脚した理屈には日本人が前提とする信頼が見受けられないと感じるからだ。
それは、日本人がいまだに正しい組織論を身につけていないからなのかもしれないが、
いわゆる「正論」を苦手とする日本人は多いと感じる。
これが外国人と英語で会話している時には不思議と感じないので、
日本文化と西洋文化の不和合性にもつながるのではないかと思うのである。
で、岡本の言う「部品化」とは、日本が急速に西洋化してきたことをさすのではないか?
この本の書かれた時代(出版が1954年である)は戦後復興のまっただ中である。
西洋に追いつけ追い越せと躍起になっている時代である。
自国の文化を否定し国旗国歌を否定する時代である。
そして、自国の言語を否定しようとした時代でもあった。
当用漢字制定の裏には、漢字というものをなくそうとする動きがあったらしい。
急に漢字をなくすのは混乱するだろうからある程度の数に制限しておいて、
その後、漢字を日本語からなくしてしまおうという思想であったそうだ。
これは、敗戦の原因が「日本語(漢字)なんか使っているから」だそうだ。
本論から外れるのでこの話はここでやめるが、
日清戦争で敗れた中国が日本から漢字を輸入したという事実も
同じ根っこがある考え方のような気はする。
聖徳太子の「和をもって尊しとなす」は「みんな仲良く」という思想ではあるまい。
これこそがかたちを表す概念であろうと思う。
古い寺社を解体すると現代の理屈では理解不能な作り方がされているらしい。
柱や梁の長さがいっぽんいっぽん違い、
それらが絶妙の配置で組み立てられているそうだ。
そして、現代の知識で計算をすると、その配置が耐震性に優れているというのである。
一つ一つの壁の強度を計算しそれを足し算する「部品主義」的発想の真逆である。
全体としていかに構造を安定化させるのかを考えた作り方なのだ。
構造は「かたち」である。
構造を安定化させる為には要素自体に意味をもたせてはいけない。
要素は構造の中において初めて意味付けられるものである。
まあ、私が思考すると結局はここに行き着くので
皆さんには「またか」と鼻白む方もいらっしゃるだろうが、
日本人がかたちを考えなくて西洋人が考えられるのか?と問いたい。
ゲノムもかたちである。
だから、全体として安定であることが重要であり、
要素(遺伝子)が独自の意味をもってゲノムを安定化させている訳ではない。
ゲノムの情報が具現化したものが生きものであろう。
この意味では「生物」は「生存機械」だとしたドーキンスの考え方は、
(この考え方には全面的には賛成できないが、)
ある意味では当を得ているようにも思う。
だから、発生学を研究する時にも頭の中には常にゲノムの意識がなくてはならない。
ゲノムがひとつの体系として成立している理屈が
発生や進化を支えていることは明らかだからである。
岡本太郎から始まって、結局はここに戻ってきてしまった。