視覚言語と聴覚言語

以前から長い間ずっと視覚言語と聴覚言語について考えています。

当然のことですが聴覚言語の方が先に現れたのは間違いないでしょう。

そして、おそらくは記録するという意味で視覚言語が出現したと考えていいような気はします。

で、考えるのは、視覚言語も、それを読むときには聴覚言語とはならないか?です。

まあ、これに関しては以前にも速読のコラムで書いたような気はします。

 

で、またしても話はずれて、かたちとはたらきに戻ります。

かたちは、視覚として情報が脳で処理された結果であり、

働きは、聴覚情報として処理された結果である。

そして、その「視覚」と「聴覚」の情報処理をする場所が

脳の中で物理的に離れていて互いに連絡できないからこそ

ヒトはかたちをはたらきという互いに混じり得ない情報を持つこととなったのだが、

それは情報自体の問題と言うよりもヒトの脳の問題である、というのが養老孟司の主張でしょう。

 

このところだけを聞くとそんな気はします。

しかし、やはり時間の問題が気にかかります。

視覚情報には時間は必要ないと言われればそうかも知れませんが、

なんだかそれは理屈の上だけのような気がするのです。

なぜなら、視覚情報も、情報として存在する以上は時間を無視できないと思えるからです。

まあ、ここは少し議論が込み入るのでまた後日にさせて下さい。

 

で、いま何となく思っていることなのですが、

脳の中で視覚と聴覚の情報処理をする場所が互いに連絡を取り合えたらどうなるのか?です。

それで、かたちとはたらきは融合できるのでしょうか?

普通に考えてみても、かたちとはたらきの情報が融合できるなんて考えられない。

まあ、これを考えている私の脳が視覚と聴覚を区別しているみたいなので

私の脳が視覚と聴覚の融合を理解するというのは自己矛盾にいたるかも知れません。

そこでいつもの議論へと戻ります。

それは言語の論理による展開の限界です。

例えば理論物理学でいう宇宙の話なんて言語で考えていたのでは理解できません。

やはり数学的な論理体系からの発展がなくては無理でしょう。

その意味では形而上学なんてのも言語で表現するから訳が分からなくなる。

おそらく、このかたちとはたらきの問題も言語とはなれた論理体系で考えれば

明確に見えてくるものはあるのかも知れません。

それは図形や時間を表現できる「数学の論理」ってことに落ち着くのかも知れませんし、

何か別の論理体系に行き着くのかも知れません。

何にしても、言語という表現に依存しない論理、

すなわち思考することによってのみ何かに到達できそうな気はします。

実際に、この問題を常日頃から考えているときに

ふと何かに気付きかける(ような気になる)と気があります。

ふと目の前に明かりが見えて、それを再度考えようとした時に

また霧がかかるという経験をたまにします。

これはおそらく、再度考えるという瞬間に意識が介入し、

そこに言語的思考が入り込むことで

さっきまで見えていたかたちがゲシュタルト崩壊を起こしたのであろうと思えます。

 

乱歩は虫太郎の作品を指して

「非ユークリッド空間を、ユークリッド幾何学で表現しようとする文学」と表しました。

まあこれに近いことができなければかたちとはたらきの融合なんて無理なのかも知れません。

非常に難しいことですが、もしもかたちとはたらきの融合ができたとして、

それはとうぜん私の(あるいは他の誰かの)頭の中で起こっていることですから、

それを他人に伝えなければならないわけで、

そのためには言語に翻訳しなければならないという難問が控えています。

いやあ、道は遠いなあ・・・。