使い捨て

さて、この「捨てること」に対する罪悪感というのは、

最近の若者にはないと思います。

生まれてから「捨てる」生活に慣らされているからです。

私が高校生くらいまでは牛乳は各家庭に瓶詰めで配達されていました。

ビールも焼酎も一升瓶が当たり前でした。

もちろん、瓶は回収され洗浄されて何度も再利用されます。

瓶には保証金があり、ビールや酒を購入する時にはその分を上乗せされていました。

たしか、一升瓶が5円でビール瓶が10円か20円だったと思います。

瓶を酒屋に返せば戻ってくるお金です。

小学生の頃は、空瓶を酒屋に持って行くお手伝いをして、

返してもらう瓶代をお小遣いにもらっていました。

それが当然の世の中だったので、

缶ビールや紙パック入りの牛乳には抵抗があったことを覚えています。

いまではもうペットボトルが当たり前の世の中になっています。

それは瓶を回収洗浄して再利用するコストがかかるからなのでしょう。

それにガラスは重いので、それを運搬するのにも余計なコストがかかります。

瓶だと、どんな詰め方をしても余分な空間があき、

トラックの荷台にも無駄な空間ができますが、

紙パックなら隙間なくぴっちりと詰めますので運搬コストも節約できますし。

 

そういえば、私が学生の頃はピペットもペトリ皿もガラス製でした。

パートの女性が毎日来て洗ってから滅菌をしてくれていました。

それもいまではプラスチックの使い捨てです。

その理由も同じことで、ガラス製品が高いことです。

値段は高くても、永遠に使えるから元はすぐに取れると思われるかも知れません。

しかし、使用するにはそれを洗浄し滅菌する手間が必要です。

その手間賃がバカになりません。

学部の学生がたくさんいるところなら当番を決めて洗ってもらえばいいかも知れません。

しかし、ガラス製品は壊れます。

ガラス製品はプラスチック製品の何十倍もの値段がしますが、

何十回か使ううちに割ってしまえばそれで終わりですから、

どうしてもプラスチック製品へと移行していくことになるのは仕方ないことでしょう。

 

でも、やはり本能の部分に刷り込まれた感覚が使い捨てを「是」とは認めさせません。

ペットボトルを再生するのにも莫大なコストがかかるといわれています。

だから、資源ゴミの分別を「偽善」だという過激な人もいるくらいです。

ペットボトルと違い缶は資源ゴミになるのでしょう。

だから、缶を集めてどこかに持って行けばなにがしかのお金になる訳です。

でも、ペットボトルを集めてお金になるという話を聞いたことがない。

ということは、それを資源として利用するのは儲からないということなのでしょう。

だとすれば、ペットボトルを資源ゴミとして再利用するのは

逆にエネルギーがかかるという極論も何となく納得できるような気はします。

だから、ペットボトルに変わる何かが生まれて欲しいと願っています。

それは技術でも構いません。

洗浄滅菌を安価でできるシステムが開発されれば瓶製品が復活するかもしれませんから。

 

昔は良かったなどと意味のない懐古主義を主張しても詮無いことです。

だから牛乳ビンの復活を声高に叫ぶつもりはありません。

でも、今のままではいけないとも思うのです。

いまこそ、私たちは考えなければならないのだろうと思います。