日本人の構造
何回も書いていることだが、日本政府のやり方を見ていると、
ここまでなら起こってもかまわないと(希望的に)思っているところを、
あるいはこれ以上は起こってほしくないぎりぎりのところを想定値にあげて
それに対する対処法しか検討しない。
何も起こらないことを前提に対応を考えるのなら小学生にだってできる。
考え得る最悪の状況を想定して安全対策を万全にするのが危機管理だ。
しかも、それ以上の事が起これば対応できない可能性もあることを、
その場合にどの程度の被害がどの範囲にまで及ぶのかを、
それが起こる可能性はどの程度なのかについてを同時に明示するべきだろう。
それをせずに、何か起こってから「想定外」では話にならない。
「今後何も悪いことは起こらない」と自ら思考停止させる考え方は
この期に及んでさえ見受けられる。
あと数日で地震から一ヵ月が経つ。
最低でも今の状況を震災直後に徹底的に考えて手を打っておけばこんな事にはならなかった。
一ヵ月もあれば今やっているような作業以上にあらゆる準備ができたはずだ。
あたかもこれ以上悪いことは起こらないような(希望的?楽観的?)対応で
すべてにおいて対応は後手後手に回った。
楽観に根拠があるならそれでいい。
しかし、状況をみているとそうではなさそうだ。
みたくないものはそこにないものとする、
臭いものには蓋をする思考が働いているようにしか、
少なくともこれまでを見るかぎりは感じられない。
だから、原発容認派である私が、
この国には原発を持つ素養がないと言わざるを得ないのが現状だろう。
これは原発に限らないことは何度も言っている。
すべての根は同じところにあると感じる。
ゆるい需要予測による赤字垂れ流しの空港や公共施設の建築など、
そのときは批判されてもごり押しして一定時間黙っていれば通ってしまう。
これらのツケも国民にはね返っているのだが、
借金をしまくってそのときの財政をごまかせていればひとまずは責められない。
これは相似構造ではなく相同構造なのである。