続・日本人の構造
この思考回路を生んだのは日本人的な感覚なのかも知れないが、
戦後我が国に見られる訳のわからない価値観にも問題があると感じる。
すなわち、内容の議論ではなく、とにかく何でも反対する野党の姿勢が、
正しいデータを出ささない守りの態度につながった可能性を考えてしまう。
それはいまのこの状況においてさえまったく変わっていない。
だから政治は信用されないのだとそろそろ分かって欲しい。
議論についてだが、日本人はディベートが下手だといわれている。
それは確かにそうだが、私はディベート技術は議論にとっては害があると思っているので
それはそれで何も問題はないと感じている。
それは、ディベートが現時点での意見の違いを主張し合う方法だからである。
議論とは、話し合いながら新しい何かを見つける為のものである。
だから、出発点がゴールであるという時点でディベートに意味を見いだせない。
ただし、ディベート力は交渉能力であることは認める。
特に互いの利害がぶつかる時にはディベート力がなくては不利益ばかりを被るだろうし、
歴史的に見ても外交において日本が交渉下手だという事実は覆い隠せないだろう。
それは、国会での答弁を見てもよくわかる。
相手の意見を聞かずにただただ批判するばかりではディベートにすらならない。
論理的批判というのは相手の意見を聞くことからしか始まらない。
本来の議論は、その相手の意見を徹底的に無批判に理解し、
それについての自分の考えを述べるところから始まるのだが、
ディベートは、おそらく批判的な理解をするところから始まるのだろう。
ただ、どちらの場合にも「理解」が入らなければダメであろう。
とにかく無批判に批判的態度をとる傾向が日本の政治家には多いと感じる。
だから、ガキがダダをこねているような印象しか与えないし、
平和的な交渉ならともかく、ギリギリのつば迫り合いを重ねるような交渉においては、
相手の意見をきちんと理解しないものだから正確な対応ができず、
日本人の得意な笑顔で逃げ切る。
ただ、逃げ切れるはずもなく、相手は着々と隙に付け込んでくる。
実は、この流れについてはこれ以上はよくわからない。
目に見えるかたちとして議論の仕方などで上記のような想像はできる。
しかし、その根底に日本人の人の良さとかがあることは否めない。
「和をもって尊しとなす」「争いごとを善しとしない」「自分が一歩引けばすべて丸く収まる」
「相手の気持ちを慮る」などなど、日本人を如実に語る言葉がたくさんある。
実際に被災地の報道を見ても「もっとひどい人がいるのだから」と老人が言っている。
この価値観は、本来の意味のディベートにも向かないかもしれない。
この、私が大好きな日本人の良さが悪い方に動く要因だとしたらやるせない。
日本人の社会は「出る杭は打たれる」。
だから「声の大きい者」だけが得をすることはない。
ワガママを通す者がいれば、それは議論や理屈ではなく、
社会として許さない制度ができていた。
良くも悪くも村社会である。
しかし、その社会観念が近年薄らいできたように思う。
私は、あくまでも個人的にだが、その理由が戦後教育にあると思っている。
個人の権利を徹底的に教える反面で、
年長者を敬うこと、親や家族の大切さを教えることを放棄してきたように思う。
人と人とのつながりではなく、自分個人のあり方を教えてきた。
それは、ともすれば自分個人の主張の仕方であり、
他人よりも得をするすべを教えてきたことにもならないだろうか?
何が言いたいのかといえば、
外国の構造を、そのかたちだけを戦後日本国民に放り込んできたわけで、
社会や人とのつながりにおいて成り立ってきた日本社会や日本国民に
西欧の個人主義的構造を押し付けたものだから社会が崩壊したと考えるのは穿ち過ぎだろうか?
だから、論理はともかくとして、小泉・竹中路線の言い分には徹底的に違和感を覚えるのである。
それは、アメリカのかたちを土台にして議論が成立しているからで、
それをグローバルといわれてしまえばそれまでだが、
そのまま日本社会に持ち込もうとすることは無理があると感じるからである。
だから、いつもここで思考が停止するのはどうしようもない。
「かたち論」の提唱者として、個人主義的価値観には相容れない訳で、
だからこそ、この議論はこれ以上私には踏み込むことができない領域だろうと感じる。
もう少し考えてみます。