瓶詰地獄
夢野久作の「瓶詰地獄」について書きますので未読の方はご注意ください。
短い物語なので、先にこちらを読んでからこのあとをお読みいただく方がいいかも知れません。
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夢野久作の「瓶詰地獄」を初めて読んだ。
さまざまな解題のある小説で、
興味は持っていたのだが何となく読むことなく時間がすぎていた。
物語は、船が遭難し、小さい男女の子供だけが無人島に流れ着いたあとの話である。
兄妹が瓶に入れて海に流した手紙の文面がこの小説のほとんどすべてである。
小説としては、最近の手紙から過去にさかのぼるようなかたちで書かれている。
さて、これをどう読むのかだ。
最初の手紙には、島での生活の中で二人が神の罰が下るようなことをして
それを苦に海に身を投げることが書かれている。
二番目の手紙では、漂着から10年が経ち身体も大人になった男女が
「生物学的」な本能の目覚めと人としての倫理観の狭間で揺れる心模様が
狂おしいばかりに切々と描かれている。
そして、まだ漂着してすぐの頃の一番最初の手紙には、
「オ父サマ。お母サマ。ボクタチ兄ダイハ、ナカヨク、タッシャニ、コノシマニ、クラシテイマス。
ハヤク、タスケニ、キテクダサイ。市川太郎 イチカワアヤコ」
とだけ書かれている。
だから、ものすごく表面のみを捉えたら
最初の手紙で「神の罰が下るような大罪が何なのか?」という謎が示され、
その前の手紙でそれが「結婚前の男女の性的な行為である」ことが暗示され、
その前の手紙では「その二人は兄妹であった」というどんでん返しと読めないこともない。
しかしそこで、多くの人から異論が唱えられている問題が生じる。
まず、本文をお読みになった方にはご理解いただけるであろうが、
最初はほとんどカタカナしか書けなかった子供たちが、
誰もいない無人島での生活で漢字を、
それもとびきり難しい意味の漢字をどうして書けるようになるのかということである。
この点は、何人かの作家や評論家が指摘しているし、
阿刀田高などはこの点以外にも、
そもそも子供二人きりで生活している状況で
近親相姦を大罪だと認識できるはずがないとかなりキツい表現で糾弾している。
しかし、別の解題に衝撃的なものがある。
彼ら二人が漂流した時に持っていたものは、
鉛筆・ナイフ・ノート・虫眼鏡・水の入った3本のビール瓶・聖書だったのだが、
これらすべてに意味があったということである。
実は、二つ目と最後の手紙に書かれている、
ふりがな無しにはとても読めないし意味すらも取りきれない、
日常ではまず絶対に出会わないような漢字は
文語訳の聖書にのみ使われている言葉であり、
聖書の文章が唯一の教科書であったわけで、
言葉も漢字も、そして精神的な支柱までもが聖書のみから得られていたというのだ。
私たちの話す言葉や書く言葉は多かれ少なかれ誰かの言葉をまねている。
自分自身の創作だと思っていても、
それは間違いなく誰かの表現を無意識に用いているはずである。
ただ、私たちも周りには学ぶべき師はたくさんいるので、
多くの場合はそれらの取捨選択によって己の言葉ができ上がるはずである。
しかし、ここに描かれている少年少女が学ぶべき手本は聖書しか存在しない。
だから、難しい言葉もそうだが彼らの価値観のすべてが
聖書の倫理観・道徳観・宗教観によってのみ形づくられたと考えるのである。
要するに、多くの読者から非難を受けるような、
中途半端で表面的な「どんでん返し」しかない小説ではなく、
この短い文章を一言一句に作者の企みが隠されているのである。
たしかにあの「ドグラマグラ」をかいた夢野が、
そんなに浅いところで皆に糾弾されるような物語を紡ぐとは思えない。
しかし、これも謎解きをされたあとで思うことである。
ましてや、多くの名小説家や批評家がこぞって同じ点を指摘し批判するのだから、
それを疑ってかかるには私にとっては難しすぎることであった。
このような深遠な技術を持って書かれた文章を読む時には
その「謎解き」を読まなければ誤解したままに終わるばかりか、
本当の輝きを見ないままに終わってしまうこととなる。
いやあ、恐ろしい・・・・というか、
いままでにいくつの小説を、その本質を見ずに読んできたのだろうか。
考えるだけで恐ろしいし、
それらについて偉そうに批評したとしたらなどと考えたら
もう冷や汗どころの話ではない。
よく、小説は何の先入観も持たずに読む方が良いと一般的には言われるのだが、
それでも優れた案内人のような解説を読んでから読書を始めると
無垢のままで読み始めるよりも何倍も得られる感動は大きいといわれる。
瓶詰地獄は、これとは違った意味で解説が力を持つ小説であろう。
夢野が謎を提示し別の人が謎解きをするという、
新しいかたちの推理小説のような感じさえ漂う。