記号

記号と言えば、元素記号だったり地図記号だったりと

何か意味を持つマークっぽいものを思い浮かべる。

しかし、特定の事象を意味するものとしては文章であっても記号となりうる。

そこでいつものように「記号」について考えてみよう。

まず、かたち論的にみると記号は時間軸を必要としない。

たとえ長文であろうが、そこにさされている意味自体には時間は関係ない。

だから、暗号であっても同様の事が言える。

そこに存在するのは自己完結する意味だけであろう。

 

以前に「速読」について勝手な想像を書いたことがある。

この発端としては、視覚言語と聴覚言語の違いを考える上で、

視覚言語を認識する場合の読者の聴覚言語的な振る舞いについて考え、

そこから時間軸の存在を理屈の上で排除したことがあげられる。

だから、そこに存在する文章と言う記号を

全体として視覚的に(音読せず)瞬時にかたちとして捉えた場合には

それは視覚言語として認識し得るという議論である。

ただし、ここまで変なことを言わなくとも、

記載された言語というものは、そもそもが記号としての意味を持つものである。

だから、記録に向いている。

逆に音声言語は、話者の思想や感情、

あるいはそのときの雰囲気などを示すには向いているだろうが、

物事の記録ということだけを考えたら不向きであろう。

想像するに、契約などに必要だからこそ生まれてきたものが視覚言語だろうから、

そもそもが「記号」としての側面が重要であることは想像に難くない。

 

我々は、眼で文字を追うにしても一定の時間が必要である。

また、それを黙読してしまうと聴覚言語との差が消滅するので、

この議論が混乱しているのだろうと感じるのだが、

視覚言語はそこに記載された情報を、

かなりの時間を経て伝えるためのものであるとしなければ

聴覚言語との違いがあいまいになりかねない。

聴覚言語は原則的にその場での情報伝達を担っており、

視覚言語は極論すれば何万年後にも情報を伝えうるわけで、

だからこそ記号としての側面を強く持つと考えられる。

 

ただし、視覚言語の成立には聴覚言語を抜きにしては語れない。

余談だが、そもそも聴覚言語が先に発生したのはまぎれもない事実だろうし、

おそらくそれが理由で、ヨーロッパでは視覚言語は聴覚言語よりも格下に見られているらしい。

実際に、日本に比べてフランスで小説家は、

日本人には「不当に」と感じられるくらいに低い地位そうだ。

 

ここではまとまりきれないので、

視覚言語と聴覚言語の違いについてはあらためて書かせて頂く。