実現可能性か論理性か?
私が読むのは9割が推理小説で1割が思想哲学書です。
で、またまた推理の話。
さまざまな趣味や価値観が存在するのは理解しているので、
何かを否定するつもりもなく、あくまでも私個人の考えであることです。
推理小説を読んでいると「えっ?」と思う瞬間がいくつかあります。
そのひとつは「いくらなんでもそれは無理やろ」って気持ちです。
推理小説に限らず物語を読む時には、
どうしてもその物語の中に自分をおいて考える傾向があります。
だから「実現可能性」をどうしても考えてしまうのです。
あまりにも偶然に頼った展開がなされると、
「そんないい加減な計画で殺人を犯すやつはいない」と
論理展開の議論以前に考えてしまうのです。
似たような感じですが、もう一つは犯行計画があまりに安直すぎる場合も、
「普通、そんな安直な考えで殺人を計画するヤツはいないやろ」と思ってしまいます。
いろんなパターンが考えられるのに、
犯人が計画したように周囲の人も被害者も振る舞って
結果的にすべてが上手くいくってのは、
現実には起こり得ることかも知れませんが、
起こりえないかもしれない危険性が大きすぎるし、
そうなったときのリスクがあまりにも高すぎると感じて、
そこに不自然さを感じるのです。
逆に、動機に関してはかなり緩い基準が私にはあります。
よく、そのように軽い動機で殺人を犯す訳がないという批判がありますが、
私にとっては、万人が納得できる動機なんてむしろ少ないとすら思っていますので、
動機に対しては論理が存在しなくても気にはならない。
というか、動機というのは極めて個人的なものなので、
犯人の中で論理が存在すれば、それが異形であっても構わないでしょう。
あまりにトリック至上主義が行き過ぎた為に社会派と呼ばれる推理小説が主流となり、
その反動で(どちらが反動なのか分かりませんが)「本格推理」が影を潜めた時期がありました。
そして、20年ほど前から振り戻しが起こり「新本格」と呼ばれるブームが到来したように思います。
私は、このような分け方には共感できません。
論理的に解き明かされる謎と、無理のない実現可能性さえあれば、
それがどちらに分類されていても大して意味を感じないのです。
極論すれば、現実ではない世界を作り上げ、
その世界の中だけで通じる論理によって謎が解き明かされる方が、
この世界で無理矢理に犯罪を仕立て上げたあげく、
ムチャクチャな屁理屈で謎を解き明かすよりも気持ちがいいのです。