論文の論理性2
さて、一般的な論文の構成については前回書いたので
次に科学論文における論理性について書いてみる。
ただし、科学論文として認められる内容には
論文という以上は語義的に見ても論理は存在するはずだから、
「論理か非論理か」と言うレベルではなく
その論理の表現の仕方について考えることとなる。
先のコラムでは「結果は時系列にそって並べる」と書いた。
原則的には間違っていないとは思うし、
学生に論文を書いてもらったら間違いなくそうなる。
しかし、私の考えはすこし違う。
時系列という概念はそもそも論文には不必要だと思っているのだ。
実験としては最後の最後に行なったことであっても、
それを一番初めに出すことで問題を分かりやすくすることはあり得る。
分かりやすくする為だけではない。
その論文にインパクトを与える並べ方や結果の出す順序はある。
推理小説の倒叙ものなどを考えたら分かりやすいだろう。
もし倒叙ものの物語を起こった順番どおりに書いたら、
それは単なる事実の羅列であってそこに驚きなど存在し得ないのと同様に、
論文で指し示す事実というもの自体は変わらないにしても、
その結果をできるだけ印象的に、
そして、できるだけ衝撃的に読者に与えられるかどうかは、
結果の出し方や出す順序あるいは序論から考察に至る論理展開が重要であるということだ。
その研究の発端となる小さな発見から導入すると、なんとなく全体の流れは見えてくる。
しかし、その「誰もが気付きうるのに見過ごしてきた小さな現象」を
最後に切り札で出してきたら読者は「やられた」となることがある。
あるいは、印象的な出だしを演出する為に、
時系列で論理展開する時には必要のない実験データから始めることだってあり得る。
結局はその論文で主張する論理をいかに印象的に読者の心に刻み込むかなのだ。
もちろん、データの質が第一に問われるべきであることは言うまでもないが、
質の低い結果はどのように並べたって質の高い論文にはならない。
しかし、書き方が拙いせいでせっかくのデータが評価されないことはある。
論文が論理を最重視するのであれば論理展開そのものをもっと考えてみてもいい。
一番最後の結果の図表を一番最初に持ってきた時に、
まったく同じデータを使っているにもかかわらず
まったく異なる印象の論文に仕上がるのはまぎれも無い事実である。
ところで、ここまでお読みいただければ既にお気づきの方もいらっしゃるだろう。
そう、よくできたミステリを学術論文として私は書きたいのだ。