一年ほど前に「死んだらどうなるのか?」ってことを書いたように覚えている。

これは、大昔から議論される肉体と魂の問題なのだろうか?

まあ、その辺りの整理は賢い人に任せて、

私は認識の側面からあらためて考え直してみよう。

 

物事を認識する場合に、それは脳が認識できたものしか認識できない事を

脳が認識したようにしか認識できない事をこれまでにも書いている。

これはおそらく間違いのない事だろう(https://hashimochi.com/archives/3289)。

そこで感じるのは、目の前のものが本当にこのような形をしているのか?ということ。

あくまでも私たちの視覚・触覚がこのように見せているだけであり、

例えば触覚なども視覚からの補正がなければなんとも頼りない感覚だし、

視覚自体もトリックアートなどを見るとしばしば騙されるわけで、

その「騙される」という事実も、我々が正しいと思う認識にならない事を

「騙される」と表現するだけの事であろう。

だからこそ、ア・プリオリに何かが存在するような状況すらも怪しくなる。

目の前の本はノートは鉛筆は、はたして本当にこの形をしているものなのか?

この「本当に」という表現も私の感覚からすれば正しくはない。

何をして「本当」が分かるのかって疑問が伴うからである。

 

たとえば、私たちは可視光しか認識できない(だから可視光というのだが)。

X線しか認識できなかった時に私たちが見ている世界は同じものだろうか?

視覚がX線を認識し触覚がいまと同じだった場合に、

私たちは、いま見ている「外表面」を触って、内部の構造を見ると考えるだろうが、

最初から視覚情報としてX線の形があり、それに触覚情報が脳の中で組み合わさった時に、

いま私たちが想像するような感覚が生じるだろうか?

おそらくまったく別の感覚が脳の中に結ばれると思う。

私たちが見えない、聞こえない、あるいは触覚として認識できない情報を、

たしかな情報として認識した場合に

そのものは私たちが認識しているのとまったく同じ姿形であるとは到底思えない。

 

さて、思考や意識について考えてみよう。

思考も意識も、そこに「存在する」かたちであろう。

ただし、五感(視・聴・嗅・味・触)では認識できないかたちである。

だからこそ、肉体と精神は分けて考えられるのだろう。

ただ、私たちの五感は関係性自体を認識する事はできないと感じる。

私たちの五感が認識する「実体」は認識できるのだが、

その間のつながりを認識する事ができない。

 

思考あるいは論理は、その要素自体を私たちの五感が認識できているのだろうか?

言葉に表せば音としての認識は可能であろう。

文章に表せば視覚として認識も可能であろう。

しかし、思考や論理などは脳の中だけに存在するかたちであって、

そこに我々が認識できるという意味での実在はない。

それを音や文章に表す為には言語体系に翻訳しなければならない。

もっと違う見方をすれば、意識なんてものは言語に翻訳すらできないかたちである。

だからこそ、五感では認識される事はあり得ないものである。

 

直感的に意識や思考には時間軸が伴っているように私は感じる。

それは何となく身体に対する霊魂的な感覚によるのだろう。

どうしても身体を「かたち」と認識すれば、

霊魂を「はたらき」と認識したくなる。

でも、実際に意識や思考は時間的な意味を持つのだろうか?

この「実際に」も怪しい。

なぜなら時間を感じるのはあくまでも私たちの脳によるのであって、

時間というものがア・プリオリに存在すると規定すること自体がおかしい。

時間と空間を相対的に捉える事は当然の事であり、

相対的にしか捉えられないのは間違いないのだが、

我々の脳にとって時間と空間は最も両立させにくいものであるのだから、

この議論はいつも堂々巡りをする。

話が横にそれた。

思考とは、さまざまな要素が複雑に絡み合った関係性の事だと考えて問題はないだろう。

そして、それは五感では捉えられない。

この関係性の、その「かたち」の一部でも別の人の脳に移植する事ができないだろうか?

ある哲学大系を徹底的に考え尽くした時に、

そのかたちが突然脳に入ってくる。

その瞬間に私たちはその哲学を「理解」する。

これも言わば思考のかたちが移植されたと考えて良いように思う。

これほど明確な例ではなくとも、

ある関係性が、なんらかのかたちで脳に構築される事は十分に起こりうるだろう。

日頃から近しく接していた人の有形無形のかたちが

我々の脳にでき上がる事は想像に難くない。

これは、その人を五感で捉えられる事がなくなっても、

我々の脳にかたちとして残る。

これが意識であり、霊魂であると考えたらどうなるのだろう???

 

いや、これも違うかな?

こう書くと「記憶」とごっちゃになる危険性がある。

記憶や思い出という話ではなく、

五感を越えた認識によって人の意識を感じられるとすれば、

それが魂の実体なのだろうという事で・・・うまくまとまらない。

 

出直してきます。